鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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例としては、滋賀県の天台寺院、善水寺諸像が有名である。善水寺の本尊薬師如来像は正暦4年(993)の年紀をもつ像内納入品が確認されており、ともに須弥壇上に安置される梵天・帝釈天像と四天王像は一具の作とみられ、後陣に安置される兜跋毘沙門天像・不動明王像・僧形文殊像も近い頃の作とみられている。薬師如来像の随侍像として四天王・梵天・帝釈天・僧形文殊像が配される構成は、比叡山根本中堂像を写したものと推定される(注16)。また『山門堂舎記』、『叡岳要記』、『九院仏閣抄』などには、根本中堂の向かって右脇壇の文殊堂に2軀の毘沙門天像が安置されていたことが記され、いずれも「屠半様」と注記されるが、善水寺兜跋毘沙門天像の姿は、この2像のうち最澄自刻と伝えられる像の模刻と推定されている(注17)。ここで、冒頭に挙げた伊豆地方の薬師如来群像の作例のうち、一群中に梵天・帝釈天・四天王像が含まれる河津町・南禅寺伝来諸像が注目される。ただし南禅寺諸像については最近、田島整氏によってその造像背景を考察する論考が発表され(注18)、天台系の造像である可能性は否定されている。田島氏は南禅寺諸像の造像期間を9世紀前半から10世紀半ばとみて、根本中堂諸像や善水寺諸像をはじめとする同時期の作例とその尊像構成を比較し、さらにこの時期の伊豆の状況を示す古記録を詳細に検討した。そのうえで南禅寺諸像の造像は、9世紀後半の伊豆諸島の噴火に際した中央政府の対応によるものであり、その担い手は奈良仏教勢力であったと推定している。一方の函南町・桑原薬師堂伝来諸像については、これまでに諸像のうち観音菩薩像と地蔵菩薩像が一対の像であり、同じ堂に伝来した薬師如来像の脇侍として造られた可能性について考察している(注19)。この薬師如来像は天台宗の影響下で発展した箱根山と関係する由緒をもつ像とみられる。桑原薬師堂の観音・地蔵像は、12世紀前半の作である薬師如来像に遅れる時期の造像とみられ、天台宗における「放光菩薩」の信仰に関連させて、由緒ある薬師如来像の脇侍として付加され、薬師如来の霊験をさらに高めた可能性が考えられる。伊豆地方で天台宗における薬師造像が広まるのは平安後期以降のことのようである。5.吉谷神社薬師堂伝来諸像の造像背景吉谷神社薬師堂諸像の伝わった伊豆大島は伊豆諸島最北端の島であり、律令制下では遠流の地とされた。安永6年(1777)に始まった大島火山の大噴火の際に中央火口丘の三原山が成長し、おおよそ現在の形になったとされる。噴火についての記録は『日本書紀』天武天皇13年(684)の記載の後14世紀まで見られないが、地質学分野の研究によって、記録の間隙にも数度の噴火があったことが推定されている(注20)。― 233 ―― 233 ―

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