鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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島では古くから三原山そのものをご神体(三原大明神、御神火など)として崇拝してきたという(注21)。『伊豆国大嶋差出帳』の記載から薬師堂には薬師とともに山岳信仰と関わりの深い蔵王権現が祀られていたとみられ、吉谷神社薬師堂伝来諸像は三原山を神山とする信仰のもとで守り伝えられてきたものと考えられる。また、薬師堂は島内に三社存在する式内社のうち野増村鎮座の大宮神社と深い関係にあったと推定されている(注22)。伊豆七島の創世神話である『三嶋大明神縁起』(『三宅記』)によると、三嶋大明神が「はふの大后」との間にもうけた「太郎王子」が、大宮神社祭神の阿治古命と同一神とされている。『三嶋大明神縁起』では三嶋大明神とその王子たちの本地を薬師如来としており、薬師堂が大宮神社と密接な関係にあったと推測されることと合わせて興味深い。『三嶋大明神縁起』の成立は鎌倉時代と考えられている。伊豆諸島各島に薬師堂の存在が認められるが、とくに大島の平安時代薬師群像の存在は、『三嶋大明神縁起』成立の素地となる薬師信仰が古くから伊豆諸島に伝わっていたことを示していると思われる。吉谷神社薬師堂伝来諸像が中世以降、三原山への信仰や伊豆諸島全体の薬師信仰のなかで守り伝えられてきたことがわかるが、造立当初の諸像に期待された効力は海難救済に関するものと考えられ、とくに三原山火山に対する信仰との関係には注意を要する。田島氏が前出の論考内で9~12世紀の伊豆諸島の火山活動と神階叙位に関する古記録をまとめており、これにより9世紀後半に活発化した伊豆諸島の火山活動に対して度重なる神階叙位があったことがわかるが、正史の編纂が途絶えたこともあり10~11世紀の記録はみられない。噴火への対応として造立されたとみられる南禅寺諸像の造られた平安時代前期には、岩手・黒石寺、宮城・双林寺、福島・勝常寺、広島・古保利薬師堂、同・善根寺、島根・万福寺など、それぞれの地域の中心的寺院または在地有力者によって薬師如来像を中尊とする群像が造られている。半丈六の薬師如来坐像を中尊とし、等身大の両脇侍像や帝釈天、四天王、吉祥天像などを備えるこれらの群像については濱田恒志氏が詳細に論じている(注23)。濱田氏は、在地有力者たちが一族や在地社会の平穏を祈るために、またそれを通じて在地における優位を維持するために、当時の公的な薬師信仰を縮小・変容した形で地域に導入し、在地の薬師信仰を構成したとみられるといい、そうした信仰の場で造像されたのが、前述のような各地に伝わる平安時代前期の薬師如来坐像であったと考える。南禅寺像もこれに連なる作例である。一方で平安後期に入ると律令的国家体制が崩れるとともに個人の宗教的救済が求められるようになり、私的信仰が生まれてくるが、その傾向は地方においても同様であ― 234 ―― 234 ―

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