2、 初代館長アルフレッド・バーによる美術館設立趣意書とフィルムライブラリーの必要性本章ではMoMAの美術館活動そのものの方向性を決定することになった人物であり、若干27歳で初代館長に就任したバーが、どのような美術館を構想し、映像作品をコレクションの収蔵対象とすることにしたのかについて見ていく。まず、バーが館長に就任する直前である20代の頃の経歴について触れておく(注3)。プリンストン大学美術史学で修士号を専攻第二世代にあたる指導教官チャールズ・ルーファス・モーリィの元で取得し、ハーバード大学の研修生などを経た後、いくつかの大学で講師を務め、1926年秋にはウェルスリー大学美術史学科准教授に就任した。1927年には学友であるジョン・E・アボットと共に、実業家でありハーバード大学で助教授を務めていたポール・ジョセフ・サクスの後押しもあって様々な作品を見る視察として28年の夏まで約1年をかけてヨーロッパ各地を巡った。そこでドイツに4日間滞在し、バウハウスも訪れていた。バーは1929年からはニューヨーク大学に在籍し、キュビスムと抽象美術について博士論文の提出を進めようとしていたが、その矢先にサクスによって同年の6月、新たに設立されることが決まっていたニューヨーク近代美術館の館長に推薦されることとなった。開催まで準備期間がわずか4か月となったが、開館記念展として1929年11月8日から「セザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ゴッホ」展が開始され、そのほかの美術館からの借用で急遽準備された。美術館はマンハッタンの5番街57丁目にあるビルの12階を間借りしての開館となった(注4)。では、バーが目指した美術館はどのようなものだったのであろうか。自身が1929年に記した趣意書『新たな美術館』では、メトロポリタン美術館はここ数十年の時代を牽引するような美術を集めてはいないが、評価が定まるまではその作品を所蔵しないという方針に敬意を払い、「大衆の近代美術への関心はそれでは間に合わない。また、時折訪れるコレクターやディーラーの寛大さに頼っていては、この半世紀の間に何が発展したのか、行き当たりばったりの印象以上のものは得られない。近代美術を公平に展示するもっともよい方法は、時代の感覚と傾向、好みを反映している作家の作品を展示するギャラリーの設立であることは既にわかっている」(注5)と述べ、美術における最新の動向までを、新設される美術館で扱う範囲としていくことを表明している。また、美術館の開館直前である1929年8月のプレスリリースではこれから美術館が収集する作品の方針について、次のように記されている。「そのうち、美術館は絵画― 241 ―― 241 ―
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