鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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と彫刻といった狭まった制限を超えて、素描、版画、そして写真、タイポグラフィ、商業および工業デザイン、建築(プロジェクトとマケットのコレクション)、ステージデザイン、家具と装飾芸術のための部門を含むために拡張することになるだろう。特に重要なコレクションは既にモスクワで運営されている楽譜とその年のもっともよい映像が保存、公開されているような、映画館、映像のための図書館である(注6)。」バー自身は伝統的な美術作品の形態である絵画や彫刻だけでなく、多様なメディアへと視野を広げており、当時はまだ美的な視線が投げかけられることが少なかった、身近な日常品である商業、工業デザイン、特に映画、映像を美術館の所蔵品として取り上げていくべきであるという意思を示している。また、1932年には次のように述べている。「それを良い映画であると有難がり、援助するようなアメリカ大衆の一部は、これまで映画を見るような機会を与えられてこなかった。近代の絵画や文学に詳しい人は驚くほど、映画について無知である。…大げさではなく、20世紀の芸術としてそれをもっともありがたがるようなアメリカの大衆に知られていないのは映画なのである(注7)。」バーは美術館の委員たちが映画に関する知識が乏しいことについて嘆きながら、新たなメディアである映像が既に評価されている作品と対等に見られていない現状について問題視し、映画は現在もっとも取り上げるべき芸術表現であることを強調しているのである。バーは当時娯楽の一種でまだ大衆的なものと認識されていた映画について、その芸術的側面を捉え、価値を引き上げるべきであると主張している。アメリカにおける映画をめぐる状況を記しておくと、1927年には初めてのトーキー映画が生まれた。1922年から30年までの間に、映画産業へ以前の10倍以上の資金が投入され、年間観客動員数も4000万人からその倍となったことで、映画監督たちは意欲的な作品を制作出来るようになり、特にハリウッドはこの時代に活況を呈するようになる。それに伴い、20年代半ばからは数々の映画スターや現在も初期大作映画として挙げられる作品が多く作り出されており、1929年頃には映画は大衆の娯楽として人気を誇っていたといえる(注8)。このような状況を鑑みれば、美術館を構想する上で、新たに台頭した表現メディアである映画は、今後の発展性も含め着目せざるを得ない存在であっただろう。映画が芸術であるという認識は人々のなかにほとんど芽生えていなかったといえるなかで、フィルムライブラリーの存在はバーが提案する新たな美術館にとって、新機軸として打ち出されていったのだ。3、バーの映像への関心このように映像を始めとし、美術館のコレクションにおいて収集するメディアの範― 242 ―― 242 ―

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