鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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なかにあるものだったといえる。また、このような発言は、当時において商業的な背景を持つ対象を芸術として扱っていくという、意思を表明するものとして受けることが出来るだろう。6、フィルムライブラリーの実践と普及を目指してでは実際に、フィルムライブラリーではどのように映像を上映、および活用していたのかという観点から美術館の活動を見ていく。バーによって1936年に企画された2つの大きな展覧会「キュビスムと抽象芸術」、「幻想芸術、ダダ、シュルレアリスム」においても、映像作品が出品作品として取り上げられている。両展とも絵画と彫刻を中心とした内容だが、写真、建築、デザイン、映像といった出品作があり、多様なジャンルによる構成となっている。出品されたこれらの映像はフィルムライブラリーのコレクションであり、内容に合わせた美術作家による映像作品の他、商業的な映画監督による映像も含まれていた(注23)。様々なメディアによる構成は展覧会のコンセプトをより幅広く展開するために重視されていたことが推測され、これは前述したバーが担当したウェルスリー大学での授業方針である、複合的な体験が作品解釈の助けになるという考えとも合致しているといえる。また、映画そのものに焦点を当てたMoMAでは初となる展覧会もこの頃に企画されており、1937年6月には「アメリカ映画についての簡単な調査」展と同年12月には「現代的な映画の作り方」展が開催された。これはスチルや使用された小道具、衣装などを展示しながら、映画の制作方法について紹介する企画であり、展示物はフィルムライブラリーからの出展となった。バーは「現代的な映画の作り方」展のプレスリリースにおいて「この展示では、映画制作の複雑な技術はその他に美術館が見せる絵画、写真、彫刻、建築といった以前からある古い芸術と同様に丁寧に展示される(注24)」と発言しており、ここでも同様に映画に対する向上的な意図をもって企画されていることが示されていた。さらに、創立10周年を迎えた1939年の5月に美術館の建物が新規に増改築され、その際2階にフィルムプログラムのための上映スペースが作られることとなった。これはバーが当初から希望していたように、映像を見る映画館の形態となっており、ここでは美術の展覧会とは異なるスケジュールで独立したフィルムプログラム、または展覧会と連動した内容で企画されたプログラムが上映されていた。1939年から40年までの1年にフィルムプログラムはほとんど連続して毎日行われており、年間で17万9327人が利用していた(注25)。同年年間の美術館入場者数が58万5303人(注26)となっ― 246 ―― 246 ―

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