なっている。また最初期の恩地が文学的動向から受けた影響の新たな一面を示す作品としても注目されるが、本作品に関する詳細な研究は、これまで進められてこなかった。桑原規子は、恩地に関する包括的研究のなかで本作品について触れつつ、キリストの身体のデフォルメに恩地の『月映』初期の特徴を指摘している。そこでは、キリストの死を嘆き悲しむ現実の女としてマリアが描かれたことが示唆されている(注6)。本稿では、恩地が複数の作品でキリスト教モティーフを描いている点に新たに注意を向けながら、《キリストとマリア》におけるキリスト教モティーフの使用とその表現上の逸脱についての解読を試みる。第1章では、恩地がキリスト教イメージを形成した背景として1910年前後の文学的潮流との関連について示す。第2章では、モティーフ毎の分析を行い、作品全体の構成を読解する。キリストとマリアにおける対比的表現に注目し、恩地がキリスト教モティーフに込めた独自の意図について考察する。第1章 作品の成立背景第1節 北原白秋との関連白秋と『月映』同人は、直接的な親交で結ばれていた〔表1〕。恩地は白秋の詩を視覚化した作品も描いており(注7)、彼によるキリスト教イメージの形成と表現には、白秋の南蛮詩の受容が関わったことが考えられる。白秋は1909年の『邪宗門』において、主要モティーフである切支丹を、官能とエキゾチズムの象徴として激情的に描き出した。この詩集に収められた詩のなかで十字架のモティーフは、夢や眩惑の語を伴って表されている。例えば「邪宗門秘曲」の「血に染む聖傑」、「血の磔背」といったフレーズにおいて、白秋は十字架を殉教と祈りの象徴として眩惑的・異教的イメージで表している。この意味では、白秋におけるキリスト教イメージはデカダンと結びついている。連続する詩「汝にささぐ」、「ただ秘めよ」、「さならずば」のなかに繰り返される「くるす」の語はまた、切支丹の信仰の秘匿の切実さを喚起する。恩地は詩画集『いのちのうすあかり』〔図2〕において、十字架を黒い背景のなかに浮かび上がる幻影のように描いている。田中恭吉あての絵葉書〔図3〕においても、蝋燭の光に照らされた自画像の目と目の線上に金色に浮かび上がる十字架がヴィジョンとして描かれている。こうした恩地における十字架の幻影的表現は、夢や眩惑の要素と結びつく白秋によるキリスト教イメージに呼応する。恩地は切実な祈りや刹― 14 ―― 14 ―
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