鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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的で派生的な面であることから、長霊癋見面の成立は能面の中でも比較的遅かったと考えられる。天文9年の年紀を有する本作は、長霊癋見の型が確立される過渡期に制作された面であり、形式が定まっていなかったため一部に現在とは異なる造形がみられるのではないだろうか。これに関して、目元の形状ほど明確な違いではないものの、面の細部にも表現の差異が確認できる。本作の口端には窪みがみられるが、これは近世以降の長霊癋見面とも共通する特徴である。ただ、一般的な長霊癋見面では窪みが正円に近い形に整えられ抽象化されているのに対して、本作は結んだ口の界線から窪みと隆起がなだらかにつながり、口を引き結んだ際の口角の盛り上がりとそれに伴う頬のたるみが表現されている。同様に、長霊癋見面の額中央には逆三角形の隆起があらわされる。近世以降の作例の中にはこの隆起を強調するかのように周囲に皺を刻むものがあるが、本作は界線を設けずなだらかに盛り上げている。こうした自然で柔らかな表現からは、細部の形状が固定化される以前に制作されたことがうかがえる。管見の限り、長霊癋見面で中世以前の年紀を有する作例は本作以外に類をみない。さらに、これまでみてきた通り本面は長霊癋見の定型が確立される以前の造形を留めていると考えられる。他の中世の年紀を持つ面にも古い形式を示す例はあるが、本作ほど派生的な種類の面かつ現在流布する型に近似しているものはまれである。「べしみ」面は室町期の基準作例としてはもちろんのこと、能面の発展と派生の過程を伝えるひとつの例として貴重な作品であるといえるだろう。なお、前節で確認したように「べしみ」面と長滝白山神社所蔵翁面・厳島神社所蔵翁面は同時期に制作された面であるが、資料的価値という点においては一部異なる性格を持つことを指摘しておきたい。前述の通り、能面は室町期に大きく発展し様式を整えたと考えられるが、翁面に関してはこれに当てはまらない。翁面は能面の一種ではあるものの、元来は能の先行芸能で用いられていたもので、面自体の様式も鎌倉時代には完成していたことが知られている(注13)。同一作者が手掛けた3点の中でも、能面の派生の過程を示すという点で「べしみ」面は別種の価値を有する存在である。おわりにこれまでみてきた通り、早稲田大学會津八一記念博物館所蔵の3点の面は臼杵藩主稲葉家の旧蔵品である。多数の面の中から選別されて帝室博物館に出品されていたことから、同家の所蔵面の中でも貴重なものとして扱われていた可能性が考えられる。本稿ではそのうち「べしみ」面を取り上げ、次の2点において重要な作例であるこ― 254 ―― 254 ―

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