写本を手にする者を意識していたと明らかに判る言葉である。CC61番にはこのような文言は見られないが、セルビア王ステファン・ヴラディスラフ(1264年以降没)の墓の壁画(ミレシェヴァ修道院、1235年頃)(注10)〔図5〕が理解の助けとなる。この壁画では、聖母がヴラディスラフの手を引いて玉座のキリストに引き合わせるという、CC61番の挿絵とほぼ同じ構図が用いられている。壁画が描かれた当時、ヴラディスラフは存命であった。しかし、将来その真下に自らの石棺が置かれることを予期していなかったとは考え難い。要するに、献呈者の存命中は単に彼の献堂を記念する壁画であったのが、彼の死を以て墓碑に変じたのである。写本においても、献呈者が生前に本人の死を見越して用意した場合があったとしておかしくない。その点、ディオニシウ65番もCC61番も詩篇写本であるのは興味深い。ビザンティンの習慣では、詩篇は葬儀や命日の法要で詠まれるからである(注11)。比較的裕福なビザンティン人は、修道院に埋葬費用を寄進し、死後に行うべき法要の手筈を指示するなど、死に向けて何らかの備えを行っていた(注12)。ディオニシウ65番、CC61番はそのような死後への備えの一環であったのではないか。Vat. slav. 2が仏教で行われる追善供養に相当するなら、ディオニシウ65番やCC61番は逆修供養に近い性格を持つともいえよう。ディオニシウ65番とCC61番の挿絵では、献呈者の生前と死後が特段区別されておらず、むしろ献呈者を記念する連続した行為のある時点で起こる出来事として、献呈者の死が捉えられていた。献呈/被献呈者の生前と死後で絵画表現を使い分けない傾向は、ビザンティンの本土で作られた作例には顕著に見られる。好例は、Oxford, Lincoln College, cod. gr. 35(1322年以前?、以下《リンカーン・ティピコン》) (注13)である。当写本は皇族に連なる貴族女性テオドラ・コムニニ・パレオロギナ(1332年以前没)が首都に創建した堅テオトコス・ティス・ベベアス・エルピドスき希望の聖母修道院の規ティピコン定集である。巻頭に描かれたテオドラ一族の肖像群のうち、少なくともテオドラの両親(f. 1v)と夫(f. 2r,7r)は写本制作時には故人であった。ただし、そうであると判明したのはひとえにティピコンに収録された一族各人の命日を連ねたリスト(注14)による。A・カトラーとP・マグダリーノは、f. 11rに描かれたテオドラ本人も死者であると判断した。根拠は、彼女の隣に描かれた娘エウフロシニの眉が太く、鼻や唇が肉厚で、肌のトーンも繊細なグラデーションで表現されているのに対し、テオドラの顔は鼻梁と繋がった細い眉や生彩を欠いた頬、三白眼で表されている点にある(注15)〔図6〕。要するに、エウフロシニの顔貌は生きた肉体の厚みを感じさせる一方で、テオドラの顔貌は平坦で表情に欠けており、それこそが死者の証であるという。f. 11rがテオドラの死後にエウフロシニにより追加された挿絵だというのは魅力的な仮説である。し― 262 ―― 262 ―
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