鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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かし、カトラーとマグダリーノが指摘した「生者と死者の顔貌表現における相違」を他の作例に見出すのは困難である。同じ《リンカーン・ティピコン》の中でさえ、テオドラの両親(故人、f. 1v)とテオドラの長男夫妻(存命、f. 8r)の顔貌表現にこれといった違いは見当たらない。そもそも、ビザンティン美術における肖像は頭髪や髯の形状で差別化される場合が多い。自然、表情や顔のパーツの類型は限られてくる。したがって、眉の細さや頬の色で生死を判定しようとすると印象論に終始しかねない。絵画表現のみで人物の生死を判断するのが困難である以上、いくつかの傍証を積み重ねて推測するのが現実的である。Dionysiou Monastery, cod. 587(11世紀後半、以下ディオニシウ587番)は亡き皇帝イサキオス・コムニノス1世(1061年没)のために皇妃エカテリニと皇女マリアがコンスタンティノポリスのストゥディオス修道院に納めた、という仮説を呈示された稀有な福レクショナリー音書抄本である(注16)。当写本にはイサキオスはおろかエカテリニの名や献辞の類すら残されていない。献呈者と制作の動機を同定する上で手がかかりとなったのは、挿絵中で二人の「携香女」が何度も強調されている点、f. 2rの「アナスタシス」にイサキオスと思しき人物が見える点、洗礼者ヨハネに関する挿絵が可能な限り多く配されている点であった。エカテリニとマリアが隠棲したミレレオン修道院は携香女が携えていた没薬を名に冠している。加えて、「アナスタシス」に献呈/被献呈者の姿を描き込む手法は珍しくない(注17)。その上、イサキオスが没し、恐らく埋葬もされた地であろうストゥディオス修道院は洗礼者ヨハネを奉ずる。詳しく同定の経緯を述べることは控えるが、挿絵に巧妙に隠された献呈者の意図を読み取り、歴史的事実と突き合わせれば、死者のために作られた写本を特定できる可能性はある。纏めると、早世したブルガリア皇子イヴァン・アセン4世を記念したVat. slav. 2では一見して彼が故人であると判るような絵画表現上の工夫がなされていた。しかし、これほどあからさまに被献呈者が死者であることを表した挿絵は、ビザンティン本土で制作された写本では見当たらない(注18)。というより、ディオニシウ65番やCC61番が示すように、明らかに死者としての献呈者が描かれている写本は、その死を悼む遺族ではなく献呈者本人が自らの死を見越して作らせたものであった。むしろ、亡き人物を記念して遺族など周囲の人物が作らせた写本では、献呈/被献呈者が死者であると俄には判らない。《リンカーン・ティピコン》では死者も生者も同様の顔貌表現がなされている。また、ディオニシウ587番では被献呈者が故人であるとは一言も書かれていない。代わりに、故人を悼む献呈者の意図は挿絵の選択や銘文中の語句に巧― 263 ―― 263 ―

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