鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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(注7)。東京駅は、戦後まもなく東京と疎開先の熱海の往復生活をしていた大観が頻繁に利用していた駅であった。駅長室への寄付は、関係者の話によれば、遅延した電車が到着するまで駅長室で休むよう案内をした際、大観より申出があったと言われている(注8)。さらに、作品が貴賓室に飾られる予定であることを聞いた大観は、貴賓室用の作品も描いて納めた。これら2作品は現在も、駅長室と貴賓室に飾られている。大観による寄付の理由については、駅員への礼や空襲の被害の復旧作業中で駅長室が殺風景であったことに加え、「東京駅に対する大観の心のありよう」(注9)や「日本の玄関口」に作品が飾られるという名誉(注10)などが指摘されている。上記以外は、大観への直談判または大観と懇意の人物を仲介にした依頼によるものである。そして、大観に寄付を頼みにいった者やその関係者は、同意を得た際のエピソードを回想録など何らかのかたちで残している場合が多い。寄付が書籍用であったため本稿では取り上げなかったものの、『国師杉浦重剛先生』の見返し画を頼んだ藤本尚則は、面識のない大観へ依頼に行った際のことを次のように述べている。「画伯は快く承諾せられ『何か御希望ありますか』と問はる。よって其厚意を謝し『杉浦先生が皇太子殿下に御進講の七年間一月から三月までは殿下が沼津御用邸に御滞在中のため週に二回沼津に通はれたもので、その間常に沼津から富士山を望まれたのですから、その富士山をお願ひしたいと存じますが…』と述べれば画伯は『承知しました。富士山は各地から眺められる中で沼津と三島の間の海上から眺めるのが一等よいのです。それを描きませう。三日ほどたって廿七日には郵送します。』と。こんな昭和二十八年十二月廿四日大観画伯を訪問したときの模様であるが廿七日に書留小包で発送、宛名も画伯自筆で送り届けられた。」(注11)。このやりとりからは、大観が寄付の依頼者へ希望画題を聞き、あらかじめ納品日を伝えて、その期日までに着実に納めたことが確認できる。他方、依頼に応じた大観本人による回想や自伝での言及はほとんどない。ただし、新聞ではたびたび報じられた。たとえば《大楠公》(湊川神社、昭和10年)は、朝日新聞が昭和7年の時点で、大観が奉納を引き受けた経緯を「美しいエピソード」として取り上げた(注12)。さらに昭和10年には「本紙 春季大附録」として、《大楠公》の「HBオフセット極彩色美術印刷」を朝日新聞の月極読者へ頒布している(注13)。― 270 ―― 270 ―

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