また、《霊峰富士》(読売新聞社、昭和14年)〔図1〕は読売新聞が大々的に報じたが、その第一報は「大観畫伯の畫筆報國 厚生資金へ一萬圓寄託」というものであった。これは《霊峰富士》への謝礼金を、大観が受け取ることなく同社の「戦没者遺族戦傷勇士厚生資金」募集事業へ納めたことを伝えたものである。《霊峰富士》披露よりも先の報道であり、これは同日に始まった「銃後後援強化週間」(注14)に合わせたものと考えられる。この翌日以降、紙面では「大観画伯空前の大作“霊峰富士”」「画筆報國 熱意の結晶」の見出しとともに《霊峰富士》が紹介され、コラムでも「畫に描いた餅に非ず、大観の富士は厚生資金となって、銃後強化週間を飾る」と取り上げられるなど、その巨大な作品とともに銃後後援への参加を印象づけるものとなった。この1か月後、読売新聞ではさらに献納機のための《海山十題》展の計画をいち早く報道、厚生資金に次ぐ「第二の美擧」と紹介をしている(注15)。3.主題と形態主題を大別すると、富士14、寄付先に因むもの(祭神・境内・風景等)7、太陽3、満月2、その他5となる。形態は、額15、掛軸8、障壁画(天井画・襖絵・壁画)5、その他(不明含む)3である。これについては、当時の形態が判明しているものはそれを、確認できなかったものは現在のものを表記した。ただし、現存作品については概ね当時の形態が維持されているものと考えられる。これは、とくに障壁画や額には、広く鑑賞に供するためにその形態がとられ、また長らく当時と変わらずに飾られた例に因るものである。加えて、作品にメッセージを托して啓発する、といった目的もしばしば与えられた。例えば、《明暗》(早稲田大学、昭和2年)〔図2〕は、制作に際し大学側の希望として「学園の精華と新図書館の使命」を象徴することが挙げられた(注16)。《満月》(伊賀文化産業城、昭和10年)を納めた天守は、川崎克によれば「日本民族の精神作興」のための復興であり、「精神教育を徹底」し「情操を涵養」するために「現代各一流人物の御揮毫」を募ったものであった(注17)。また、大観が額に仕立てて納めた《神国日本》(海軍工作学校、昭和17年)〔図3〕は、その依頼理由について「横山大観画伯に乞うて、講堂に世界的名画“富嶽の図”を掲げたのは、その雄大崇高にして穢無き英姿を以て、生活の精神教育に資する所あろうと期した」ためと推察されている(注18)。この言葉からは、情操教育のためにも、生徒の目につく場所に掲げられていたことがわかる。また、《神国日本》は富士に朝陽を配した図で、落款に「神国日本」と記されるなど、国威発揚が強く打ち出された作品となっており、大観が寄付先と用途をふまえて表現したものと考えられる。― 271 ―― 271 ―
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