なお、《神国日本》同様、寄付の際に軸や額などの表装を済ませて納めたケースはしばしば見受けられた。《霊峯》(天業民報社、大正13年)〔図4〕は寄付画の最初の例であり、かつ智学の希望によって、もっとも多い主題である富士の先駆けともなった作品であるが、『日刊 天業民報』(注19)では、作品とともに大観があつらえた表装と箱書きも賞賛されている。また《霊峯》が確認できる図版には、同社の刊行物のほか、下谷区や江戸川区、静岡県など各国柱会施設の座敷で撮影された記念写真〔図5〕がある。携行に手軽な軸ならではの飾り方ともいえるが、いずれにせよ《霊峯》が寄付先にて広く活用されていたことが確認できる(注20)。また、最晩年の寄付画《Berg Fuji》(ケルン東洋美術館、昭和30年)〔図6〕も、大観が「あちらに展示するのに便を図って」掛軸に仕立てて寄付をしたことが当時の新聞に掲載されている〔図7〕。同作は、ケルン東洋美術館館長ヴェルナー・シュパイザーの懇請を受け制作されたもので、翌年開催のアドルフ・フィッシャー生誕100年の記念展に出品された(注21)。さて、主題と形態をあわせて見た場合、もっとも多いのは富士の額であった。最初の例は、先述した読売新聞社《霊峰富士》で、講堂の壇上正面に掲げられた〔図8〕。この社屋は東京大空襲で被災したが作品は戦禍を逃れ、昭和23年竣工の読売会館ホール正面と貴賓室を経て、現在は大手町の本社エントランスに飾られている(注22)。続いて湯島小学校《富士》(昭和15年)、大津町村役場《霊峰不二》(昭和16年)の扁額ほか7点が確認でき、いずれも校長室をはじめ、熱海市役所市長応接室、東京駅駅長室・貴賓室、熱海税務署署長室などに飾られてきたものである。また、形態を問わず、富士はいずれも横画面で雪を抱き雲煙につつまれた姿で描かれ、現存作品については、すべての背景に金泥が刷かれていた。大観の富士の作品では金泥がしばしば用いられるが、寄付画は現存作品すべてにこれが使用されており、装飾性に加えて、新築や創立記念への祝意や講堂や応接室などもてなしの場での掲示を想定した上での表現と捉えることもできるだろう。大観の意図とは異なる場所に飾ろうとしたがために、結果として2点を受け取った東京駅の例からも、大観が飾る場所を考慮し制作をしていたことは明らかである。まとめ今回、寄付画として確認できた作品は、ちょうど大観の画業の後半の制作にあたるもので、《生々流転》(東京国立近代美術館、大正12年)以降、水墨作品における古典的傾向が顕著となり、また日本文化とその精神性についての画論を積極的に説いて― 272 ―― 272 ―
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