鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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いった頃と重なる。時勢は、大正12年に発せられた「国民精神作興ニ関スル詔書」(大詔)以降、昭和4年の国民教化政策による神社参拝、昭和12年に始まる国民精神総動員運動の厚生事業ほか戦時態勢協力などが推進されており、大観による昭和初期の神社および昭和半ばの公共の場への制作など、寄付の来歴に重なるところが多い。とくに富士の画は、日本精神のイメージとして大観自身が意欲的に取り組んだものであり、同時に昭和初期から戦後まで、多くの依頼を受けた主題でもあった。寄付画の来歴や掲示場所からは、鑑賞のみならず啓発目的も兼ねた例が見られるが、とくに戦時態勢下の富士については、精神教育のために依頼側に応じ、ときに大観自身が積極的に主題を選び制作したことがうかがえる。読売新聞社《霊峰富士》についての談話でも、大観は日本精神の発揚について次のように述べている。「かねて親交のある正力読売社長から揮毫の委嘱をうけて欣然としてお引受けした、画題は社長の希望と自分の考へが一致してこの際日本精神の発揚を意味する霊峰「富士」の図が最も適当だといふことになった(略)今後永く時代の文化公共事業たる新聞社の講堂に飾られるのは画人としての本懐である」(注23)。また、作品が確認できず取り上げなかったものの、昭和20年の警視庁への寄付については当時の新聞が「日本画壇の巨匠横山大観画伯の得意の『富士山の図』が近く警視庁大講堂正面を飾り帝都一万四千警察官の情操陶冶の資に供されることヽなった(略)縦五尺、横六尺という大幅物、今後は常時警視庁大講堂正面に掲げられ、式典その他の会合に毅然たる富士精神を仰いで士気昂揚をはかることとなった」(注24)と報じており、その目的が明確に記されている。明治期の日本画草創期において、岡倉天心が絵画に国民精神の育成の役割を求めたこと、国粋主義的な立場から称揚された富士が大観のテーマとなっていったことは、佐藤志乃氏によってすでに指摘されている(注25)。このように、国民の自覚を促す媒体としての役割をも求められた日本画が、なお、その機能を維持し発揮していたことが、今回、大観の寄付画をとおして確認することができた。また、作品とともに来歴、とりわけその契機や依頼者とのやりとりを概観したことで、大観の画業をより立体的に捉えることができたともいえるだろう。作品の中には盗難や学生運動での破壊を恐れて移管されたものもあったが、所蔵団体の解散や建造物の解体を経てなお、大切に受け継がれてきたケースも見られる。今後は、他作家も含めて、作品と来歴がともに維持されている寄付画の情報を当時から― 273 ―― 273 ―

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