龍天井画昭和9年下谷神社(同上)画題が設けられていないものについては[ ]で主題を記した。形態については寄付当時の状況を記し、不明の場合は[ ]で現在の状態を記した。受注台帳「依頼画控」の記載で寄付画に該当すると考えられるものは、その内容を備考欄に記した。参考資料として用いた『静子夫人日記』および横山大観書簡資料はいずれも横山大観記念館所蔵。霊峯掛軸明暗壁画日輪罄明宝船掛軸秩父神社・柞の杜[額]朝陽之図明治神宮図大楠公満月格天井昭和10年常山返照秋色武蔵国[掛軸]昭和13年氷川神社(同上)霊峰富士額画題形態衝立障壁画昭和4年掛軸掛軸[額]昭和10年寄付先(現状)制作年経緯大正13年天業民報社(焼失)講演会欠席を機に制作。図書館新築に際して高田早苗からの相談を機に、下村観山とともに制作。昭和2年早稲田大学図書館(同学會津八一記念博物館)昭和2年天業民報社(行方不明)明治節請願運動に際し制作。造営に際して藤巻正之からの天井画についての相談を機に制作。昭和3年長田神社(同上)昇格に際し薗田稲太郎からの依頼により制作。昭和3年秩父神社(同上)日光東照宮社務所(日光東照宮美術館)社務所の改築に際し藤巻正之からの依頼により制作。明治神宮鎮座十年祭に際し制作。昭和5年明治神宮(同上)造営に際し阿部徳重と氏子総代からの依頼により制作。大楠公殉節六百年祭に際し藤巻正之からの依頼により制作。昭和10年湊川神社(同上)伊賀文化産業城(同上)伊賀上野城の天守建造に際し川崎克からの依頼により制作。茨城県(茨城県近代美術館)自身が顧問を務めた茨城会館開館記念茨城美術展に際し制作。造営に際し神域改善事業奉賛会からの依頼により制作。社屋新築に際し読売新聞社からの依頼により制作。昭和14年読売新聞社本社(同上)大正13年、田中智学主催の天業民報社は千号記念と大詔奉賛のため大講演会を展開。同会へ出席予定だった大観は、急遽欠席となった際に作品寄贈を申し出、智学は富士の画を希望した。作品は『日本とは如何なる國ぞ』(天業民報社、昭和3年)の挿図にも用いられた。落款に「賀天業民報千号 寄大詔奉賛之意 大観」とあり。大正4年、早稲田大学は大正天皇御即位大典の記念事業として図書館新築を計画。大正14年図書館開館。大正15年、大観は図書館ホール正面の大壁画について総長・高田早苗より相談を受け、観山とともに引受けることを承諾。作品は直径445センチの円窓で、紙は岩野平三郎特製「岡太紙」が用いられた。落款に「観山」「大観」とあり。大正14年より、田中智学らが明治節制定にむけ請願運動を展開。作品は『日本国體新講座』(師子王文庫)、雑誌『明治』(天業民報社)の表紙画としても用いられた。「依頼画控」の昭和2年3月の頁に「横二尺五寸幅 太陽 寄附 天業民報社 渡」とあり。落款に「大観」とあり。大正13年、長田神社は社殿を焼失、大正14 年より復旧工事開始。昭和2年、宮司・藤巻宮司が大観へ拝殿天井画について相談、木村武山を紹介される。大観自身は《宝船》を奉納。藤巻正之『『蛟龍之舎回顧』には《宝船》の刷り物と見られる図版が掲載されており、同作が授与品としても用いられたと考えられる。落款に「大観敬絵」とあり。昭和3年11月10日、秩父神社は昭和天皇の即位礼に際し国幣小社へ昇格。これを記念し宮司・薗田稲太郎が大観へ依頼。落款に「大観謹画」とあり。昭和4年、改築された社務所・朝陽閣(昭和3年11月竣工)の障壁画制作が、宮司・藤巻正之より大観を通して日本美術院へ依頼された。大観は荒井寛方、堅山南風、中村岳陵を紹介、自らは貴賓室上段の間の襖絵を描き奉納した。落款に「大観謹写」とあり。昭和5年9月、明治神宮鎮座十年祭にむけ大観は大塚巧藝社社長・大塚稔とともに明治神宮を参拝し写生をする。10月奉納。同作は大塚巧藝社により複製化され、昭和6年正月に社頭絵図の授与品となった。落款に「大観謹画」とあり。下谷神社は、大正12年に大震災により全焼。昭和3年には区画整理のために移転し建築物の復興事業を開始。昭和7年11月、社司・阿部徳重らが大観へ天井画を依頼。昭和8年12月奉納。御墨料として稲穂会より渡された千円は返金し、これは浄水舎建築費へと充てられた。また、画料の代わりとして大観が奉納酒を希望し、自宅で社司、氏子らと宴会をした。なお、「下谷神社絵葉書」(昭和12年)には、復興された社殿とともに天井画の写真も所収された。「依頼画控」の昭和8年12月の頁に「天井絵龍ノ図 寄附 下谷神社(稲荷) 渡」とあり。落款に「昭和甲戌之春 大観」とあり。昭和10年、大楠公殉節六百年に際し、記念事業の一つとして「御祭神御像の揮毫」が計画された。同奉賛会を代表し宮司・藤巻正之が大観へ昭和7年頃に依頼、奉納は昭和10年。また、作品は当時、朝日新聞において複製(オフセット極彩色美術印刷)が制作され附録として配られている。落款に「大観横山秀麿謹写」とあり。昭和10年、衆議院議員・川崎克が私財で伊賀上野城の天守閣を復興。総勢46名の書画による1メートル四方の大色紙の格天井が設けられた。大観の色紙は天井中央に位置。「依頼画控」の昭和10年8月23日の頁に「天井絵 月 川崎克 渡」との記録あり。落款に「大観」とあり。昭和10年、茨城会館が竣工。これを記念し、茨城会館開館記念茨城美術展が開催され、大観は《常山返照》(のちに紫山返照と呼ばれる)を出品、寄贈した。同展では大観ほか小川芋銭、木村武山、飛田周山ら顧問も、出品作を各1点茨城県に寄贈した。大観の作品は、一時期、茨城県庁(旧庁舎)知事執務室に掲げられていた。落款に「大観」とあり。氷川神社では紀元二六〇〇年奉祝に際し神域整備事業が行われ、本殿、拝殿、楼門などが造営された。作品は本殿新築記念として神域改善事業奉賛会を通し奉納。「依頼画控」の昭和13年5月10日の頁に「三尺巾 横物 秩父連峰 秋色 寄贈 氷川神社 渡」とあり。落款に「大観謹写」とあり。昭和14年、読売新聞社は銀座に新社屋を竣工。この講堂正面に飾る作品を大観へ依頼。255×456センチの大画面であり、紙は《明暗》(早稲田大学、昭和2年)でも用いられた「岡太紙」を使用。大観は謝金一万円を同社による「戦没者遺族戦傷勇士厚生資金」事業へ寄付、富士の画とともに大々的に新聞に紹介された。主題は社長・正力松太郎の希望による。作品は戦後、昭和23年竣工の読売会館ホールおよび貴賓室へと掲げられた。落款に「皇紀二千六百年 大観」とあり。なお、図柄はホールの緞帳にも用いられている。表1 横山大観の寄付画一覧備考『朝日新聞』(昭和9年4月21日)、『鳥居の影:下谷神社史料』(阿部徳重・安部徳男編、下谷神社社務所、昭和39年)、『下谷神社要覧』(下谷神社、昭和30年)『湊川神社六十年史 本篇』(湊川神社編、湊川神社、昭和14年)、『朝日新聞』(昭和10年1月20日)『伊賀文化産業城落成記念全国博覧会誌』(三重県上野町編、三重県上野町、昭和13年)、『伊賀上野城 天井絵巻』(前出絢嗣、財団法人伊賀文化産業協会、平成22年)『茨城の美術史 明治・大正・昭和』2版(茨城県立美術博物館編、茨城県立美術博物館、昭和47年)、藤本陽子「茨城県近代美術館所蔵作品から 横山大観『紫山返照』」(『茨城県近代美術館 友の会会報 游美』58号)『武蔵一宮 氷川神社 氷川の杜を訪ねて ~古絵葉書集~』(武蔵一宮 氷川神社、令和2年)『読売新聞』(昭和14年10月3日・4日、昭和23年10月15日、昭40年1月1日)参考資料佐藤志乃「横山大観の日蓮図と、近代における日蓮主義」(『館報』35号、横山大観記念館)、『田中智学の世界展』(産経新聞社、昭和63年)『読売新聞』『朝日新聞』(両紙ともに昭和2年1月13日)、『早稲田大学百年史』第三巻(早稲田大学、昭和62年)佐藤志乃「横山大観の日蓮図と、近代における日蓮主義」(『館報』35号、横山大観記念館)、『田中智学の世界展』(産経新聞社、昭和63年)『官幣中社長田神社復旧御造営史 上』(官幣中社長田神社、昭和4年)、藤巻正之『蛟龍之舎回顧』(藤巻真一、昭和43年)、藤巻正之宛て横山大観書簡(昭和3年2月27日)。『秩父神社社報 柞乃杜』(第32号)、『朝日新聞』(昭和3年1月8日、6月28日、7月13日)。『日光東照宮美術館─東照宮旧社務所・朝陽閣の障壁画』(日光東照宮社務所、平成7年)、『蛟龍之舎回顧』(藤巻正之、藤巻真一、昭和43年)、藤巻正之宛て横山大観書簡(昭和4年6月6日、10月7日、12月12日)『朝日新聞』(昭和5年10月12日)、『明治神宮鎮座九十年記念展─横山大観』(明治神宮宝物殿、明治神宮、平成22年)― 276 ―― 276 ―
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