額額頃頃額画題形態[額][額]富士額[満月]格天井昭和15年石上神社(同上)霊峰不二鹿島洋朝暾[掛軸]昭和17年鹿島神宮(同上)神国日本富士額富嶽[額]昭和21年富士[額]昭和21年富士に雲霊峰不二清凉額海暾額[富士山]心神色紙御神號[掛軸]昭和29年伊豆山神社制作年寄付先(現状)経緯創立70年に際し吉野作太郎からの依頼により制作。昭和15年湯島小学校(文京区)増改築に際し今井爽邦からの依頼により制作。役場庁舎新築に際し小野金次からの依頼により制作。昭和16年大津町村役場(北茨城市)勅祭社治定に際し制作。海軍工作学校開校に際し萩原勘一からの依頼により制作。昭和17年海軍工作学校(足立美術館)昭和18年慶應義塾幼稚舎(同上)幼稚舎備付用として制作。熱海観光文化協会主催の町内会対抗駅伝に際し内田勇次からの依頼により制作。熱海市(熱海市役所秘書広報課)熱海観光文化協会主催の町内会対抗駅伝に際し内田勇次からの依頼により制作。電車を待っている間、駅長室で休むよう案内されたのを機に制作。熱海市(熱海市立伊豆山郷土資料館)昭和21年東京駅駅長室(同上)昭和22年東京駅貴賓室松の間(同上)東京駅貴賓室復興に際し制作。早稲田大学(同学會津八一記念博物館)創立70年に際し坂崎坦からの依頼により制作。昭和27年茨城大学設立にともなう設立期成会からの依頼により制作。昭和27年茨城大学(昭和55年に盗難)税務署庁舎新築に際し内田勇次からの依頼により制作。昭和28年熱海税務署(同上)文化祭の著名人色紙展示に際し生徒からの依頼により依頼。昭和28年日比谷高校(同上)例祭に際し中山夫人からの依頼による制作。(同上)創立70年記念として、校長・吉野作太郎が卒業生であった大観へ制作を依頼。作品は校長室に長らく掲げてあった。「依頼画控」の昭和15年12月の頁に「富士 額面 尺五竪横幅五尺 寄付 本郷区新花町 湯島小学校 校長 吉野作太郎 渡」とあり。落款には「大観」とあり。新潟県南魚沼市に位置する中之島村では、紀元二六〇〇年の紀年事業として石上神社社殿の修造を行った。この際、格天井揮毫の寄付を現代名士に依頼。村長・鈴井謙治が杉板を担ぎ、同村出身の日本画家・今井爽邦(日本美術協会)とともに、名士宅をまわったという。総勢69名の揮毫からなるものである。「依頼画控」の昭和14年4月12日の頁に「枠張り 預り 寄附 本郷駒込神明町三二九 今井爽邦 渡」とあり。落款に「大観」とあり。老朽化のため大津町では役場新庁舎を建築、昭和16年6月27日竣工。大観への依頼を仲介した小野金次は、地元の有力者で、大津町五浦にある大観の別宅を管理していた人物。依頼画控の昭和16年1月の頁に「新築紀念 富士額仕立 寄付 茨城県大津町役場 渡」とあり。落款に「大観」とあり。昭和17年、武神である武甕槌神を祭神とする鹿島神宮が、同じく武神である経津主大神を祭神とする香取神宮とともに勅祭社に治定され、これをうけ制作。なお、落款に「大観謹写」とあり。昭和16年4月、久里浜に海軍工作学校が開校。これにともない教官・萩原勘一が校舎に掲げるため大観へ依頼。作品は講堂に掲げられた。額の裏面には、萩原の尽力によって大観から献納されたことが昭和17年11月の日付で記されている。また、画料の代わりに一升瓶と練習生が制作した文書箱が大観へ贈られた。依頼画控の昭和17年9月の頁に「校長 海軍中将 朝隈彦吉閣下 横須賀市海軍工作学校教官 萩原寛一 渡」とあり。落款に「神国日本 大観」とあり。『三田評論』544号には「富士山の額自筆一面額縁共」が「幼稚舎備付用」として3月13日に大観が寄附したとの記載あり。大観遺族の話によれば、孫・隆が幼稚舎を卒業する際に納められたとのことだが不詳。落款に「大観」とあり。昭和21年、新憲法公布を記念し町内会対抗17キロ駅伝競走が開催された。このとき、優勝旗として大観へ作品を依頼。市長・鶴見憲より依頼の仲介を頼まれたのは地元の有力者・内田勇次(古屋旅館会長)。落款に「大観」とあり。なお、作品は平成25年の市庁舎新築以前は市長応接室に飾られていた。昭和21年、新憲法公布を記念し町内会対抗17キロ駅伝競走が開催。このとき、優勝旗として作品が大観へ依頼された。市長・鶴見憲より依頼の仲介を頼まれたのは地元の有力者・内田勇次(古屋旅館会長)。作品には市長による「新憲法公布記念 昭和二十一年十一月三日 熱海市長 鶴見憲」の書が添えられている。富士は山頂を「心」の字で表したもので、しばしば「心神」と題されるタイプのもの。主題は内田の依頼による。落款に「大観」とあり。昭和21年、日展の審査を終えた大観は、疎開先の熱海へ帰るため東京駅のホームにいたところ、電車事故のため長らくその場で待つこととなった。復旧まで駅長室で休むよう案内された大観は、駅長室へ作品を寄贈することを申入れ制作。なお、画料の代わりとしてウィスキーと金泥が贈られた。落款に「大観」とあり。《富士に雲》の寄贈を受けた東京駅関係者たちは、大観へ《富士に雲》は復旧工事中の貴賓室松の間へ飾る予定であることを伝える。これを聞いた大観は《富士に雲》は駅長室用であるとし、貴賓室用に《霊峰不二》を制作。なお、画料の代わりとして清酒2本が贈られた。昭和23年1月22日、寄贈。落款に「大観」とあり。創立70周年記念事業として、坂崎坦が仲介となり大観ら現代作家に依頼、演劇博物館での美術展に出品された。坦の息子・坂崎乙郎の回想には、寄贈を受けた日本画が一時、本部の会議室に飾られていたこと、学生運動の際に倉庫へ収蔵されたこと、が書かれている。「依頼画控」の昭和27年4月11日の頁に「早稲田大学講堂 額九月用 キフ 坂崎坦 キフ」とあり。また昭和27年8月6日の頁に「キフ 早稲田大学 三尺巾 竹林 遠山氏へ 渡」とあり。落款に「大観」とあり。「設立期成会」は、昭和23年、茨城に新制大学を設置するため結成され、昭和24年の茨城大学開学を経て、昭和27年6月に解散し財団法人茨城県文化振興協会へと改組。解散と改組にともなう依頼と考えられる。作品は学長室に飾られ、学生運動の際に五浦美術文化研究所へ移されたといわれている。「依頼画控」の昭和27年2月の頁に「額 海 キフ 茨城大学 渡」とあり。また昭和27年8月16日の頁に「三尺幅 海暾 渡ス」とあり。落款に「大観」とあり。額裏に「贈呈 熱海税務署新築記念ノ為 横山大観 内田金嶺」とあり。金嶺とは地元の有力者・内田勇次(古屋旅館会長)の雅号。作品は今も署長室-に飾られている。「依頼画控」の昭和28年4月3日の頁に「キフ ふるや 税務署 尺五絹冨士、長色紙山々 大色紙伊豆景 渡」とあり。落款に「大観」とあり。昭和28年、日比谷高校雑誌部が文化祭に同窓の著名人の色紙展示を企画、卒業生である大観へ依頼。なお、文化祭の日程から、出品は翌29年と思われる。「依頼画控」の昭和28年10月24日の頁には「キフ 日比谷高校雑誌部 色紙心神 渡」とあり。落款に「大観 心神」とあり。「依頼画控」の昭和29年4月13日の頁に「キフ 伊豆山神社 日月、金と白金で描き、下に伊豆大神と書 渡ス」とあり。また、『静子夫人日記』の昭和29年4月12日の頁には「昼前中山夫人来宅伊豆神社祭典に付御神居所へ飾る(日月の下に伊豆大神)と描ゐてほしいとの申越し」とあり。「中山」については不明であるが、本作が4月に行われる伊豆山神社例祭のために中山氏より依頼されたことが確認できる。一時期、社務所の床の間に掲げられていた。落款に「大観謹写」とあり。備考『朝日新聞』(昭和15年12月1日)『いはらき』(昭和16年6月27日)、松尾敦子「北茨城市所蔵作品から 横山大観『霊峰不二』」(『市議会だより』No.100、北茨城市)『読売新聞』(昭和17年6月5日)『三田評論』544号(慶應義塾大学、昭和18年4月)『朝日新聞』(昭和21年11月4日)、『〈静新ブックス〉わが青春』第24集(静岡新聞社、昭和48年)、「『熱海市役所のお宝展』展示資料一覧」(目録、熱海市教育委員会生涯学習課、令和2年)『朝日新聞』(昭和21年11月4日)、『〈静新ブックス〉わが青春』第24集(静岡新聞社、昭和48年)、「『熱海市役所のお宝展』展示資料一覧」(目録、熱海市教育委員会生涯学習課、令和2年)『東京ステーションギャラリー開館記念 JR美術展』(東日本旅客鉄道株式会社、昭和63年)、稲田威郎「東京駅と横山大観。」(『東京人』212号)『朝日新聞』(昭和23年1月23日)、『東京ステーションギャラリー開館記念 JR美術展』(東日本旅客鉄道株式会社、昭和63年)、稲田威郎「東京駅と横山大観。」(『東京人』212号)『朝日新聞』(昭和27年10月25日)、『早稲田学報』848号、880号、925号『読売新聞』(昭和55年6月28日)、『茨城大学三十年史』(茨城大学、昭和57年)、小泉晋弥・梶山孝編『主要所蔵資料目録:茨城大学五浦美術文化研究所』(茨城大学五浦美術文化研究所、平成22年)、『静子夫人日記』(昭和28年10月24日)、『日比谷高校百年史』上(日比谷高校百年史刊行委員会、昭和54年)、日比谷高校記念資料館展示品解説『静子夫人日記』(昭和29年4月12日)参考資料石上神社氏子総代会編『石上神社・宝物殿』(石上神社社務所、昭和59年)内山浅子『無私順天─萩原勘一の思い出の記─』(非売品、太文社、昭和61年)、『足立美術館コレクション横山大観展』図録(朝日新聞社、平成8年)― 277 ―― 277 ―
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