鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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る。また両者の身体表現には、全く異なる様式が用いられている。克明な線により繊細に描写されるキリストの身体とは対照的に、肌色の色面に還元されたマリアの身体は抽象的に描かれている。本作品のキリストは、筋肉や骨格が露出した皮の剥がれたような身体によって肉体的な痛ましさを喚起する。『白樺』的なキリスト像を共有した恩地は、キリストが受難を負うことで人類の罪を贖うという神学的な意味(注16)よりも、個人としてのキリストに託された精神的・肉体的な苦しみに現世的な共感を抱いたように考えられる。同様に深い親交で結ばれた『月映』の関係性において、病を患う田中は恩地にとって自己同一化が可能なほど近い存在であった。恩地は深い共感を寄せるキリストと田中の苦しみを重ね、この絵の男性の痛ましい身体表現において、死への不安や病の苦しみを表現したのではないだろうか。この男性像における身体表現には、『月映』同人が関心を寄せたビアズリーとブレイクの様式への参照が考えられる。オスカー・ワイルドの『サロメ』の挿絵であるビアズリーの《月のなかの女》〔図4〕には、女性の顔が浮かび上がる満月を背景に全裸の男性とケープを纏った女性が描かれている。痩せた男性像を描き出す鋭い線表現と当時の日本では一般的でなかった男性器の描写を含む裸体表現において、本作品のキリストの描き方は、ビアズリーの絵が示す様式と類似する。『白樺』の美術紹介などにより、ビアズリーは退廃と早逝の画家として知られていた(注17)。この世紀末の画家が想起する儚さと不健康さは、恩地が本作品の男性身体において表す「死」と「病」のイメージと結び付くように考えられる。また本作品の男性像が示す筋肉が露出したような身体表現には、《吾れ忿りて星を分け行けり》〔図5〕におけるようなブレイクによる様式が参照された可能性がある。独特の理想化を施すことで肉体肯定の思想を表す、ブレイクが描く力強い身体とは対照的に、肉体の厚みを持たず骨格の線までもが露出した恩地が描く身体は、痛ましさと弱々しさを喚起する。ただし、筋肉の部位を線によって分割し強調する描き方において両者は類似している。こうした点に関して、恩地は『白樺』第5巻第4号の表紙に掲載されたブレイクによるこの作品に倣い、「死」や「病」を表す自らの身体表現に援用したのではないだろうか。第2節 マリアについての分析この絵の女性像には、ドイツ表現主義への参照が考えられる。和田浩一は、本作品を含む恩地による跪く女性の形にフランツ・マルクの木版画《贖罪》〔図6〕との類― 17 ―― 17 ―

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