Berg Fuji富嶽の図[不明]昭和31年誠之小学校(行方不明)[松に寿の字][額]画題形態掛軸図1 横山大観《霊峰富士》昭和14年 読売新聞社図4 横山大観《霊峯》大正13年図7 「ケルン博物館に寄贈する大観画伯の富士山 横山大観画伯 西独大使館文化係ウィルヘルム・ロエル氏(大観邸で)」(「大観画伯の「富士山」西独の美術館へ」『朝日新聞』(朝刊)昭和30年12月24日7面より転載) (田中巳之助『日本とは如何なる國ぞ』天業民報社、昭和3年、「序画」より転載)制作年寄付先(現状)経緯昭和30年創立80年に際し制作。区制十年に際し金津武夫からの依頼により制作。昭和32年台東区役所(行方不明)Museum für Ostasiatische Kunst, Kölnケルン東洋美術館(同上)Fräulein Dr. Hempelからの依頼により制作。「依頼画控」の昭和30年12月23日の頁に「キフ ドイツ大使館 ケルン博物館陳列 二尺巾不二松 渡」とあり。作品は翌年に開催されたアドルフ・フィッシャー生誕100年の記念展:Japanische Malerei und Graphikに出品された。記念館に残されているケルン東洋美術館館長Warner Speiserからの礼状には、Fräulein Dr. Hempelが依頼の仲介となったこと、アドルフ・フィッシャーの日本美術に対する遺志を達成するためにも大観の作品が必要であったこと、などが書かれている。Fräulein Dr. HempelとはRoseHempelのことと思われる。落款に「大観」とあり。昭和31年、創立80周年を記念し横山善信(大観の養子、号:大玄)を通して依頼、1月31日に大観より「富嶽の図」、善信より「洋蘭の図」が届けられた。「依頼画控」の昭和31年1月の頁に「キフ 本郷誠之小学校 尺八 富士松 渡ス」とあり。落款に「大観」とあり。金津武夫は童話作家、下谷区役所助役をつとめた人物。当時の新聞記事には、病床の大観への依頼とあって「“寿”の字一字でも結構ですから」と頼んだこと、作品を台東区庁舎に飾ること、帛紗としても制作し関係者に配布すること、などが書かれている。依頼画控の昭和32年4月8日の頁に「キフ 台東区役所 尺五金泥 寿ノ字 墨松 渡」とあり。落款に「大観」とあり。図2 下村観山・横山大観《明暗》昭和2年 早稲田大学會津八一記念博物館図5 高村光雲の喜寿祝いの記念写真(昭和3年)、床の間に横山大観《霊峯》が掛けられている(『田中智学の世界展』図録、産経新聞社 田中智学の世界展実行委員会、昭和63年、14頁より転載)備考『朝日新聞』(昭和30年12月24日)、横山大観宛てWarner Speiser書簡(昭和31年8月31日)『誠之百年』(誠之百年記念事業委員会、誠之小学校、昭和50年)『読売新聞』(昭和32年5月8日)図3 横山大観《神国日本》 昭和17年 足立美術館図6 横山大観《Berg Fuji》 昭和30年 ケルン東洋美術館図8 「本社新築落成式場(正力本社長の挨拶)」 (「本社新社屋落成式祝辞」『読売新聞』(朝刊)昭和14年11月9日2面より転載)参考資料― 278 ―― 278 ―
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