㉖ 蠣崎波響筆《夷いしゅうれつぞう酋列像》の研究研 究 者:江戸東京博物館 学芸員 春 木 晶 子はじめに寛政2年(1790)に松前藩士蠣崎波響(名廣年、1764-1826)が手がけた12面の着彩人物画が、仏ブザンソン美術考古学博物館に、1面を欠く状態で所蔵されている(注1)〔図1〕。11面の画に、波響の叔父で同藩家老の松前廣長(1738-1801)による2面の序文が付随する。序文によれば、その連作肖像画の名は「夷いしゅうれつぞう酋列像」、描かれた12人は寛政元年(1789)の蝦夷地東部でのアイヌ民族の蜂起(注2)に際しその収束に尽力し、松前藩から「功」を認められた「蝦夷」の「酋長」達である。藩主松前道廣(1754-1832)が、その功績を讃えるために、波響にその肖像を描かせたとある。しかしながら本作の12人の姿は、彼らの風俗を正確に伝えるものではない。体勢や面貌、持物や衣装の種類や文様には、異文化への無知や誤解の類ではない、不可解な描写が多々あることが指摘されてきた。例えば、12図のうちの1図〈麻マウタラケ烏太蝋潔〉〔図2〕は、膝を折って座す人物の体勢とそれを正面から捉える構図が、月僊筆『列仙図賛』(1780年刊)所載の仙人図と一致する〔図3〕。本作の制作に『列仙図賛』が利用されたとみられるが、仙人図によってアイヌを表現する意図は不明である。各画面に記された、像主の居住地や名前を表す難解な漢字表記の意図も計りかねる。本稿は、そうした不可解な表現を分析・考察し、蠣崎波響や松前藩の制作意図や目論みを明らかにしようとするものだ。結論から言うと、波響や松前藩は、蜂起によって和人を殺害した脅威であるはずの異民族蝦夷を、京都御所や天皇すなわち「日本」を加護する神仏へと転化せしめることを目論んだ。そうした構想の背景には、朝幕関係の緊張の高まりのなかで宮廷側に接近しようとした松前藩の思惑があった。1、神仏に重ねられる夷酋たち像主であるアイヌの酋長は、鎮護国家の神仏や辟邪の善神に重ねられていた。以下、別稿(注3)で明らかにした本作の順序〔表1〕を踏まえて、見ていく。『列仙図賛』掲載の「廣成子」〔図3〕に倣って制作された〈麻マウタラケ烏太蝋潔〉〔図2〕は、隣接する〈超チョウサマ殺麻〉〔図4〕とともに、日本神話の物語を喚起する。〈超チョウサマ殺麻〉は、「鍬くわがた形」と称するアイヌの宝器を掲げ、腰に刀剣を提さげる。鍬形や刀剣、耳飾りや帯には、多数の玉の装飾がある。玉は《夷酋列像》12図すべてに確認できるが、本図は特にその数が多いうえ、他図には見られない勾玉の形状が確認できる。刀剣と勾玉の― 279 ―― 279 ―
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