『淮えなんじ南子』にある次のような伝説だ。があしらわれた衣服は、住吉神の使いの白鷺あるいは八幡神(応神天皇と同一視される)のシンボルの白い鳩を思わせ、八幡信仰で重視される住吉神を導く。住吉神は、『古事記』 で神功皇后に新羅征伐の神託を与えた神である。神功皇后の新羅征伐譚は、『八幡愚童記(甲)』などによって、蒙古襲来と重ねられてきた。八幡信仰は、神功皇后の新羅征伐譚と、八幡神による蒙古襲来撃退を、ともに国家守護の物語に位置づけつつ普及していった(注5)。武家の家訓書『明めい訓くん一いっ斑ぱん抄しょう』(徳川斉昭著、1845年)は、「昔し異国より日本を攻んとはかる時は(中略)神代には住吉大明神、人代には武内大臣を置かれたるぞ」、「異国乱るゝと聞ば、九州に能き武将を撰み、異国を押へさせよ」(注6)と説く。江戸時代、神功皇后・武内宿禰・住吉神は、九州、すなわち日本の南西/裏鬼門からの外敵の侵入を防ぐ守護神とみなされていた。八幡信仰の拠点である石清水八幡宮もまた、京都の南西/裏鬼門を守護する、王城鎮護の社である。第十図、〈乙イ箇コ律リ葛カ亜ヤ泥ニ〉には、陰嚢を暗示する袋をはじめ、大国主神にまつわる逸話が散りばめられている。彼が携える太刀と弓矢と二羽の「水すい禽きん」は、大国主神が手に入れた生太刀・生弓矢・天の詔琴、通称「出雲の三種の神器」に重なる。本図は大国主神を祀る出雲大社を喚起するのみならず、大国主神が京都の西にある保津峡を開削したという蹴裂伝説(注7)を導く。保津峡を流れる保津川は、大堰川、桂川と名を変え、石清水八幡宮の近くで木津川、宇治川と合流する。大堰川の名は、秦氏による葛野大堰が築かれたことに由来する。秦氏の一族は新羅系の渡来人で、応神天皇の時に渡来した弓月君の子孫という伝承を持つ。葛野の地に移り住んだ彼らは都に養蚕や織物、農耕と治水の技術を伝えた。とりわけ葛野川(桂川)の大堰による治水は、都に恵みと繁栄をもたらしたという。最後の二図は、京都西部のこうした謂れと関わる。波響を含む近世の画人たちは盛んに仙女西せいおうぼ王母を描いた。その多くが唐美人であるが、『山せんがいきょう海経』が伝える西王母は「豹尾虎齒」(豹の尻尾と虎の歯)をもつ老婆である〔図10〕。第十二図〈窒チ吉キ律リ亜ア湿シ葛カ乙イ〉〔図11〕はこれに似る。彼女がまとう錦には、西王母の居所「崑こん崙ろん山ざん」や西王母の使いの「三青鳥」を喚起する文様が確認できる。不老長寿の桃で知られる西王母は、月にまつわる伝説「嫦じょうがほんげつ娥奔月」にも登場する。弓の名手羿げいは、十ある太陽のうち九つを射落とし地上を日照りから救い、人々に称えられる。ところが射落とした太陽の産みの親、天帝の恨みを買い、妻の嫦じょうが娥― 283 ―― 283 ―
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