(恒娥)とともに不死の力を奪われる。そこで二人は西王母に不死の薬を請いうけるが、嫦娥は一人それを盗み、月に逃げた。仙女嫦じょうが娥は、平安時代以来詩歌や物語にたびたび登場し、波響による賞月の漢詩にもその名が見える。第十一図〈泥ニ濕シ穀コ未マ決ケ〉の弓を張る手元、赤い甲あてには、飛翔する三羽の金の鳥がある〔図12〕。本図の弓と金の鳥との組み合わせは、太陽/金烏を射落とした羿を喚起する。弓を張る〈泥ニ濕シ穀コ未マ決ケ〉の傍に置かれた長靴は、蝦夷の産物「水あざらし豹」の毛皮でてきている。その靴の後方から出る紐は、靴から尾のように伸び、「豹尾」すなわち『山せん海がい経きょう』の西王母の姿に通じる。〈泥ニ濕シ穀コ未マ決ケ〉〈窒チ吉キ律リ亜ア湿シ葛カ乙イ〉の二図は西という方位と月を導き、京都の西、葛野の地を思わせる。〈窒チ吉キ律リ亜ア湿シ葛カ乙イ〉が敷く「朝鮮毛綴」(注8)と呼ばれる渡来の織物も、織物を伝えた渡来人秦氏に結びつく。秦氏の祀る松尾大社は、「西の猛霊」と称される皇城鎮護の社である。摂社の月読神社は、神功皇后ゆかりの「月延石」を祀る。葛野の地の「葛」は、古代以来文学にあらわれる「月に生える桂」と結びついていたという。《夷酋列像》の後半六図のうち五図に、この「葛」の字が記される。《夷いしゅうれつぞう酋列像》12図のうち、前半6図は京都の東から北、後半6図は京都の南から西に位置する鎮護国家の社寺と結びつくことを見てきた。各図は、京都の北東/鬼門と南西/裏鬼門に結びつくと同時に、異賊征伐や蒙古襲来といった国家の守護の物語、さらには渡来人がもたらした国家の繁栄の物語を内包する。3、光格天皇と松前藩秋里籬島『都名所図会』(1780年刊)は、京の都を「帝都鎮護の四神」がつかさどる「四神相応の地」であるとし、「平安城」を中心にその周囲を、「左青龍」「右白虎」「前朱雀」「後玄武」に区分けする。本書で「王城鬼門」にあたり「帝都鎮護」の役割を担うと説かれる比叡山は、籬島がのちに刊行する『東海道名所図会』(1797年刊)でも「王城の鬼門を護り悪魔を祓ふ」「鬼門柱」と記され、富士を凌ぐ存在に位置づけられる。『東海道名所図会』は、禁裏画所預土佐光貞の筆による宮廷行事「小朝拝」の絵にはじまる。加えて、前大納言中山愛親による序文は、東国を征討した日本武尊の故事を語る。高田衛は、こうした本書の「異常な設定」に、「江戸に対する京の、文化的優越性」を示す意図を汲む(注9)。本書の取材や製作時期は、寛政2-3年(1790-91)の新内裏御造営に重なり、編者籬島や本書で起用された絵師の多くがこの― 284 ―― 284 ―
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