鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
297/602

造営事業に関わっていたという。これを受けて西野由紀は、そうした制作意図の背景に光格天皇の台頭による江戸の二重王権の変質があったことを指摘する(注10)。光格天皇は、歴代の天皇のなかでもとりわけ多くの儀式や神事を再興・復古させ(先に挙げた石清水八幡の臨時祭祀の再興も含まれる)、天皇の権威上昇を果たしたと評される。強固な皇統意識から、寛政度の新内裏御造営や「尊号一件」─光格天皇が実父典仁親王に対して太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうと望んだのに対し幕府がこれを拒んだ事件─で、幕府に対し強硬な姿勢を示した。寛政3年(1791)7月10日から11日の《夷酋列像》の天覧は、「尊号一件」のただ中に行われた。それは、幕府が朝廷からの太上天皇号宣下要求を退けた時期にあたると同時に、その翌月には再びその問題が朝廷側から蒸し返されるタイミングにあたるという(注11)。聖護院門跡の諸大夫であった佐々木長秀が《夷酋列像》をもって上洛していた波響から絵を借用し、主君である光格天皇の弟、聖護院宮盈仁法親王の御覧に入れた。親王は「御感心」のあまりそれを兄である光格天皇のお目にかけたという(注12)。天覧をめぐる佐々木長秀の動機や波響との接点をめぐっては、谷本晃久の報告が詳しい(注13)。「尊号一件」をめぐっては、朝幕間のみならず幕府内の対立も絡んでいたと言われる。11代将軍徳川家斉が、生父一橋治済に大御所の称号を贈ろうと企ていた。老中松平定信はこれに反対するがために、閑院宮への尊号宣下をも阻もうとしたという。定信に反し、松前道廣は一橋治済大御所実現を熱望しており、彦九郎や岩倉卿はそれと連結することで尊号宣下を有利に導こうとしたという見方があるという(注14)。道廣は一橋治済と懇意であったとされる。他方で松前藩は、江戸初期に蝦夷地に配流された花山院忠長との縁以来、京都公家との婚姻等に尽力してきたとされる。道廣もその系譜に連なり、右大臣花山院常雅の娘敬姫を正室とした。敬姫の兄花山院長熙の子愛徳は、中山家から養子に入った人物で、実父は中山栄親、兄は『東海道名所図会』序文の作者中山愛親である。中山愛親は、「尊号一件」で幕府により処分された人物だ。当時世に出回った数々の実録本で中山愛親は「尊号一件」で老中松平定信を論破し、幕府をやりこめた功労者とみなされていたという(注15)。尊王思想に関わる公家の動向の先駆けには例えば、宝暦7-8年(1757-58)の竹内式部らによる桃園天皇への『日本書紀』の進講があった(宝暦事件)。公家たちの間でのこうした皇統意識や復古・再興の風潮が極まったのが、光格天皇のときであった。そうした思潮は公家内部のみならず、人形浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」(明和8年― 285 ―― 285 ―

元のページ  ../index.html#297

このブックを見る