注⑴いずれも同規格(絹本、縦40.0cm、横30.0cm)で、「夷酋一十二人図像 寛政二庚戌初冬 臣廣年画之」との落款がある。失われた一面の所在は不明である。欠ける一図「乙イ箇コ律リ葛カ亜ヤ泥ニ」は、小島貞喜筆《夷酋列像模写》(1843年、個人所蔵)を参照して論じる。初演)といった芸能に反映され(注16)、「千度参り」─天明の飢饉で困窮した人々が幕府の対応に業を煮やして御所に詰めかけ救済を求めた─に象徴されるように、庶民にまで行き届いていた。おわりに本稿で明らかにした《夷酋列像》が内包する物語は、朝廷の権威や権力の回復と神聖(性)の強化という面を備えていた。それは時の光格天皇の意向に沿うばかりか、当時の世間の思潮にも合致するものであった。各図が内包する神話伝説が、同時代の文芸や思想でいかに扱われ認識されていたか、《夷酋列像》の閲覧者や模写製作者たちがそれをいかに理解していたか、引き続き調査をすすめるとともに、本稿での解釈を検証していく。⑵寛政元年(1789)五月に道東のアイヌが蜂起し、和人(アイヌでない日本人をアイヌと区別するための呼称、本稿でも通例に従い使用する)71名を殺害した事件で、今日「クナシリ・メナシの戦い」と称される。⑶春木晶子「《夷酋列像》と日月屏風─多重化する肖像とその意義─」『美術史』186号 美術史学会,2019年,445-465頁⑷桜井徳太郎・萩原龍夫・宮田登校注『日本思想大系 寺社縁起』 岩波書店,1974年,176頁⑸阿部泰郎「八幡縁起と中世日本─『百合若大臣』の世界から─」『現代思想』第20巻第4号 青土社,1992年4月⑹石井紫郎校注『芸の思想・道の思想3 近世武家思想』 岩波書店,1974年,150頁⑺上田篤・田中充子『蹴裂伝説と国づくり』 鹿島出版会,2011年,175頁⑻本作と同様の朝鮮毛綴を、祇園山鉾連合会前理事長の吉田孝次郎氏が所蔵している。吉田氏によれば、現在世界で京都にのみに伝わる織物である。祇園祭祭礼の際にはこの織物をはじめさまざまな高価な珍しい織物を町衆が競って家の前に飾ったという。⑼高田衛「組み立て式「近世」という空間の話─『東海道名所図会』私語─」『日本文学 特⑽西野由紀「都から富士が見えた時代─『東海道名所図会』の目論見─」『日本文学』60巻⑾佐々木利和・谷本晃久「『夷酋列像』の再検討に向けてシモチ像と「叡覧」と」『北海道博物館アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第2号 北海道博物館,2017年,148頁⑿寛政三年七月十二日付け「蠣崎矢次郎(波響)宛て佐々木長秀書状」(函館市中央図書館所蔵) および前掲注⑾谷本,147頁集 <近世>という空間』53巻10号 日本文学協会,2004年,22-32頁2 号 日本文学協会,2011年,21-33頁― 286 ―― 286 ―
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