似を指摘している(注18)。和解を意味するドイツ語を原題とするこの絵の虹や天体のモティーフは、神秘主義的なテーマを想起させる。また、祈るようなポーズで跪く女性が光を発する描写には、悔悛や献身といった宗教的意味を読み取ることも可能だろう。ただしこの作品そのものは特定の宗教的物語を描いたものではなく、エルゼ・ラスカー=シューラーによる同題の幻想的な詩に基づくものである。マルクのこの作品は1914年3月に開催されたDER STURM木版画展覧会への出品作として、同年4月の『美術新報』第13巻第6号に掲載された。恩地がこの展覧会を観たことを回想しており(注19)、その後2か月足らずで本作品を発表していることから、《贖罪》が着想源のひとつであった可能性は高い。実際に、和田が指摘する姿勢の形に加えて、女性の裸体を抽象的な面に還元する描き方にもマルクの作品と本作品との類似が見出せる。本作品のマリアの毛髪を構成する扇状に広がる複数の線もまた、マルクの女性像が発する光線の描写とよく似ている。このマルクの絵に付された「贖罪」という邦題が、恩地にマグダラのマリアの悔恨の物語を連想させた可能性もあっただろう。本稿では、恩地が美術批評上の「内部生命」のイメージを反映させる意図で、本作品においてドイツ表現主義を参照した可能性について新たに指摘する。当時の日本では、カンディンスキーやマルクら「青騎士」の美術における対象の非再現的な表現は、後期印象派やキュビスムに準ずるものとして「内部生命」や「自然」といったキーワードとともに論じられていた。木下杢太郎は、西洋近代の絵画がもつ、対象の外観を単純な色彩と形に還元し主観に従って再統合する「元素的、合成的」な傾向について、カンディンスキーの画論を例に論じている(注20)。1912年の美術批評のなかで、石井柏亭はこうした傾向を「非自然主義的非唯物主義的」という言葉に置き換えた。カンディンスキーの『芸術家における精神的なもの』を紹介しつつ、柏亭は「非自然主義的非唯物主義的」傾向、つまり「青騎士」の美術にもみられる主観に基づく還元と綜合の表現が「人性自然の内部生命を表現」するためのものであると説く。柏亭は「人性自然の内部生命」という言葉により、対象への感情移入を介して得られる精神的・心理的なイメージやこうした感性的な運動そのものを意味しているが(注21)、この「内部生命」の語は、内面における活発な運動のイメージにおいて、恩地が本作品のマリアによって表す「生」のイメージと結びつくように考えられる。内的な活動のイメージを表す単純化や抽象化により、恩地はマリアの嘆きや悲しみ、その激しい感情のエネルギーを表現しようとしたのではないだろうか。マグダラのマリアは自身の罪に対して嘆き悔い改める姿が多く描かれるが、恩地が『白樺』の思想を受容していたことから、この絵のマリア― 18 ―― 18 ―
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