鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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㉗ 近世初期風俗画における大坂の都市と祭礼─堺を描く住吉祭礼図屏風について─研 究 者:堺市博物館 学芸員  宇 野 千代子1.はじめに堺は古くは住吉大社領であり、古来住吉大社と深い関係を有してきた。毎年六月晦日に住吉大社から堺の御旅所(宿院)へ神輿が渡御し、祓の儀式を行う住吉祭は、社伝では鎮座以来行われてきたという(注1)。堺は日明貿易の頃から国際交易港となり、都市として発展した。都市部は海と濠に囲まれ、富裕な町人たちが町の自治運営を行う力も持っていたと考えられている。しかし慶長20年(1615)、大坂夏の陣の前哨戦で豊臣方の放火によって堺の町は全焼し、徳川幕府によって新たな計画都市として復興されることとなった。堺市博物館蔵「住吉祭礼図屏風」(六曲一双、各縦107.6cm、横263.0cm、紙本金地着色、以下「堺市博本」)〔図1-1・2〕は、左隻に住吉大社、右隻に堺の町を配し、両隻にわたって住吉祭の神輿渡御の行列を描くもので、中世屈指の商都堺の様相を視覚的に伝える唯一の都市祭礼図として知られてきた。サンフランシスコ・アジア美術館蔵「住吉祭礼図屏風」(六曲一双、各縦155.0cm、横357.8cm、紙本金地着色、以下「アジア美術館本」)〔図2-1・2〕は、堺の町を一隻全体に描く二例目の都市祭礼図である。景観の方角から、住吉大社を描く隻(住吉隻)が左隻、堺を描く隻(堺隻)が右隻と考えられ、堺隻にのみ住吉祭の行列を描く。アジア美術館本は、かつて中央文化研究会『会報』第4号(1940年発行)に図版紹介されており、藤野勝彌氏の解説によると「南都の某氏が大和の某方面より譲り受けられた」が海外に渡り、当時所在不明であったという。その後、1958年にMrs. Herbert Fleishhackerからデ・ヤング美術館へ寄贈され、1969年に同館からサンフランシスコ・アジア美術館に移管された(注2)。長らく海外にあり、今や一地方都市である堺を描くためか、これまでほとんど注目されてこなかった。本報告では、これら堺を描く住吉祭礼図屏風の、都市祭礼図としての位置付けについて考察を試みる。2.堺市博本の制作に関する先行研究まず、堺市博本の制作に関する先行研究をまとめておきたい。― 291 ―― 291 ―

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