堺市博物館に収蔵される1982年以前、1970年に神戸三宮そごうで開催された「桃山美術の華 近世初期風俗画名作展」に出品され、武田恒夫氏が解説を付された。武田氏は「素朴ながら、風俗画的興味をそそらせる。寛永期をさほど降らない作品と思われる」と、画風の特徴と制作年代の目安を示した(注3)。その後、『日本屏風絵集成』第13巻(1978年発行)に高津古文化会館所蔵として掲載され、守屋毅氏が解説に「祭礼図屏風としての面白さもさりながら、近世初頭の堺の景観を描く資料としても、話題を呼ぶにちがいない作品である」と、堺市博本の主題について述べつつ、大まかな景観年代を示した。景観年代の詳細な検討は、永井規男氏と谷直樹氏による論考に始まる(注4)。住吉大社の景観描写を中心に検討したもので、慶長11年(1607)から翌年にかけて行われた慶長度造営による社殿を描くとし、堺の景観も同時期、全焼前の姿と仮定した。知念理氏は堺市博本の筆者について初めて言及し、作画様式が「厳島・住吉祭礼図屏風」(個人蔵)および「洛中洛外図屏風」(田辺市立美術館蔵の旧司馬家本、松岡美術館蔵本、歴博D本、個人蔵本)の同一工房作とみられるグループと共通することを指摘した(注5)。そして堺市博本は、この17世紀前半にわたって作画活動を行った町絵師工房の作の中でも、表現的な先行性が認められるとし、その制作時期が元和年間後半から寛永初期に遡る可能性を提示した。景観年代については、住吉大社の神宮寺の塔が三重塔として描写されていることに注目し、上限を塔の建設が始まった慶長12年、下限を塔が方形の二重塔として完成した元和4年(1618)と考え、復興直後まで幅を広げる案を示した。ただし風俗画における寺社建築の描写は、精度の正確さは求められないのが通例であるため、下限を正確に切るのは難しいとする。さらに同工房の作として「洛中洛外図屏風」(大分市美術館蔵)と「賀茂競馬・住吉祭礼図屏風」(個人蔵)も加え(注6)、堺市博本が洛中洛外図や住吉祭礼図をレパートリーとする工房で制作されたことが明らかにされた。この工房の洛中洛外図は、二条城前に仮装行列を描くことを特徴とする。大塚活美氏は、この仮装行列を、元和4年から同8年にかけて見られた8月18日の下御霊社祭礼の氏子たちによるものとし、制作依頼者として氏子地域に住む公家や上級町人などを想定し、屏風サイズが小さめであることからも私的な家での利用が相応しいと考えた(注7)。大塚氏の論考は、堺市博本に言及するものではないが、堺市博本の工房の性格を考える上で示唆的である。この工房は京都を拠点として元和頃から活動し、京都に住む人々に加えて堺の人も顧客としていた可能性が考えられる。堺市博本は左隻に猿田彦に先導される神事行列を、右隻に町人たちによる母衣武者― 292 ―― 292 ―
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