(2)町屋を伝えるが、中世に町中に点在した寺の多くが、町の東端の環濠に沿った場所に移動させられている。⑵⑷の塔は、移動前の寺々を表わすものだろう。なお堺市博本右隻には塔や寺が描かれず、宿院のほか神社が二社見えるのみである。⑴開口神社と⑶菅原神社も復興後、場所は変わらないが堂社は変化した。菅原神社の場合、「天正二年堺天神図」(堺市立中央図書館蔵)(注9)には塔一基が記されるが、焼亡後、再建されなかった。開口神社の場合、中世には多宝塔があったが(注10)、再建されたのは三重塔で、寛文3年(1663)に完成した(注11)。開口神社の三重塔と菅原神社の塔が同時に存在した時期は無いのだが、形の正確さより有無を重視すると、アジア美術館本は町中にいくつも寺があった中世堺の「イメージ」を描いていると考えられよう。このように考えると、アジア美術館本は住吉大社と堺の町とで景観年代が重ならないことになるが、それぞれに最も繁栄した姿を描くものと考えておきたい。両作の印象を大きく異なるものとしているのが町屋の描写である。堺市博本は厨子二階の町屋を整然と描くが、それは一階に庇を設け、二階にも開口部のある、一見して二階建とわかるものである。一方、アジア美術館本では本二階の町屋を一軒描くが、その他はすべて平屋に見え、浜辺のほうの家並は乱れている。堺市博本に目立つ三階蔵はアジア美術館本には見当たらない。丸山俊明氏は、中世京都では、二階表に開口部がなく、または一部のみを開口とし、庇のない、外観平屋の厨子二階が多く存在した可能性が高いことを指摘し、平屋と観察されてきた中世絵画史料の町屋には厨子二階が相当数含まれるとする(注12)。中世堺にも同様の可能性があるだろう。アジア美術館本の町屋には梁上の壁に縦横の線を引いて開口部を描くものもあり、外観平屋の厨子二階を表わしているのかもしれない〔図9〕。永井氏・谷氏は堺市博本の屋根の描写に注目し、堺の町には草葺が一軒もなく杮葺や瓦葺が主であることから、近在の村や町よりも上質の家屋群として表現されていることを指摘した(注13)。これはアジア美術館本でも同様であり、住吉隻第五扇の町には草葺家が三軒あるのに対し〔図10〕、堺には草葺家が一軒もなく、アジア美術館本の描写方法によって、堺を都会的な町として表現しているといえる。しかし描法の違いを踏まえても、アジア美術館本の町屋はより中世的に見える。― 294 ―― 294 ―
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