内を代表する材木集散地となり、江戸時代に入ってその地位を大坂に譲った(注16)。浜辺の材木も中世堺を象徴する景観といえる。しかし異様な高さであり、先行図様の存在とそれからの写し崩れである可能性を疑わせる。以上、アジア美術館本には、中世堺を想起させる図様や住吉祭の詳細な描写が注目される。これに比べると堺市博本は堺と住吉祭を描くものの、それらしい表現に留まっている感があり、それが景観年代が確定できない要因となっているともいえる。アジア美術館本の景観年代については、住吉隻は元和4年から明暦元年頃まで、堺隻は慶長20年以前と想定できる。制作年代については元和4年以降、中世堺の景観イメージがまだ人々の脳裏にある頃、寛永年間頃までの回顧的風潮の中で描かれたものと考えておきたい。4.アジア美術館本の画風の特徴筆者の問題についても考えておきたい。アジア美術館本の左右隻は別筆とみられる。人物の顔貌表現に注目すると、口の線の上下にも線を引いて唇を表わすなど、両隻で目鼻口の特徴的な描法は共通するが、住吉隻では目の上瞼の線が強調されるなどの違いがあり、目鼻口の配置も少し異なる〔図3~6〕。描線の質も左右隻で異なる。堺隻の絵師は、細緻な描写は得意であるが、大観的な構成は不得意と見え、金雲で町並を分断して描き、全体の位置関係は曖昧である。また、大小表現が稚拙で、町屋二階の見物人たち、積み上げられた材木の上の男たちは不自然に小さく、煙管屋の壁に並ぶ雁首は異様に大きい。住吉隻は、着物の文様や馬の飾りなどが堺隻よりも格段にシンプルであり、景観年代とともに制作年代も遅れる可能性が考えられる。しかし本紙の紙継や絵具の質感など、両隻に明らかな違いがあるようには見えない。アジア美術館本の特徴として、工芸的ともいえる装飾性が挙げられる。金雲には二種(亀甲繋文、七宝繋文)の盛り上げ文様が施され、左隻第四・五扇には、銀泥と銀砂子による雲も見られる〔図10〕。浜辺と大海神社境内は、砂状の細粒を蒔き付けた上に金泥を塗っている。さらに、寺社の瓦屋根の点苔の表現が特徴として挙げられる〔図7〕。このような表現は近世初期風俗画の中には見出せず、「掃墨物語絵巻」(徳川美術館蔵)や「伏見常磐絵巻」(大阪市立美術館蔵)など室町時代の御伽草子の物語絵に見出せる。この― 296 ―― 296 ―
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