の嘆きや悲しみは恋人としてのキリストの死に対して向けられているように考えられる。このように考えてみると、本作品のキリストとマリアの身体表現の違いは、恩地が西洋美術に由来する様式とそれに関する批評上のイメージを組み合わせて用い、自身のテーマを表現したことを表すのではないか。本作品において、退廃と病弱の芸術家像が紹介されたビアズリーへの参照を示すことでキリストは「死」を、内面のダイナミズムの表現であると論じられたドイツ表現主義への参照を示すことでマリアは「生」を表すのだと考えられる。このように、作品の中で男と女、生と死の対照性がテーマとなっているのだとすれば、抽象化されたマリアの身体において唯一示される性的な細部である陰毛には、生殖のイメージを読み取ることができるのではないか。髪の毛と同様の表現で描かれた局部から伸びる黒い線は、陰毛を強調して描いたものと考えることもできるだろう。死を表す男性イメージに対して生命力に溢れた女性イメージという自身のテーマを表現するために、マグダラのマリアにおいて通常は描かれない細部を、恩地は描いたのだと考えられる。第3節 十字架についての分析第1章で論じたように、白秋の詩との関連から恩地は十字架を描いている。これらの作品と本作品の十字架は、黒い背景との対比や光を発して浮かび上がる表現が共通する。ここから本作品の十字架も同様に「生命のテーマをめぐる葛藤」や「他者の苦悩への共感と祈り」といった内面を象徴し、幻影と結びつくモティーフとして描かれたように考えられる。『月映』がもつ「ひかるもの」の副題と呼応し、これらの作品に共通する「うすあかり」の描写は、恩地における命と祈り、幻影の表現における光のイメージの重要性を示唆している。恩地において十字架が幻影と結びつくモティーフであることを勘案すると、この絵をひとつの幻影風景として解釈することができるだろう。キリストはマリアの内面に出現した霊的な存在であることを示すために、透明で浮遊するのではないだろうか。本稿では、恩地が柳によるブレイク論を介してキリスト教モティーフにおける幻影的表現を発展させた可能性についても述べた。本作品の男性像の身体表現に「幻像」を描く画家として紹介されていたブレイクの様式を援用したこともまた、この絵のキリストが霊的な存在であることを示すのではないか。なおマグダラのマリアを幻視者のようにみなす発想には、『月映』が関心を寄せたメーテルランクによるマグダラのマ― 19 ―― 19 ―
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