鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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〈先行研究と出品歴〉昭和28年、阿部酉喜夫氏はその論考「山村月巣と安孫子東岡─大雅との交渉を中心として─」(注3)で本図に触れ、月巣が時雨窓の看主となった宝暦14年(1764)から東岡が大雅のもとを訪問する明和8年の間に京畿を旅し、その際に大雅を訪ねたと推測された。昭和32~34年(1757~59)刊『池大雅画譜』No. 779(中央公論美術出版)の松下秀麿氏解説は、本図がどの芭蕉の画像を手本としたかは不明とし、制作時期は大雅の書風から亡くなる二、三年前の作で、月巣が京都に旅行した時期に依頼したか、他人に入手してもらい、会わずに自句を記したものかとする。また本図が山形に伝わったことについて、天明2年(1782)秋、父の墓参りで帰省した際に持ち帰ったか、月巣没後に郷里に贈られた可能性も指摘する。昭和47年(1972)の岡田利兵衞編『図説芭蕉』(角川書店)は、本図について芭蕉像の基盤をなす、杉風筆の端座の芭蕉像に多く影響されていることを指摘し(注4)、昭和56年(1981)の『別冊太陽 芭蕉 漂泊の詩人』(平凡社)で宮次男氏も岡田氏と同様、本図が「杉風筆の追善供養像の形式」によることを指摘した(注5)。展覧会への出品歴は、「出羽路と芭蕉展」(東京都日本橋三越本店/昭和44年1月4~12日)(注6)、「芭蕉紀行300年記念─近代日本画に見る奥の細道展─」(山形美術館/平成元年4月5~30日)、「奥の細道300年記念展:芭蕉とその周辺」(山寺芭蕉記念館/平成元年7月)が確認できた。二、杉風系統祖師像(百川画・偃武模写)と本図芭蕉の画像は、杉風、許六、破笠ら芭蕉に近しい門人の作をはじめとし、芭蕉没後の百川、大雅、蕪村の作例以降、非常に多く描かれた(注7)。本図同様に杉風筆の座った「芭蕉像」の図様が参照されたとみられる百川画を二点見てみたい。うち一点の芭蕉像〔佐々木昌興氏旧蔵、図2〕は、百川が「芭蕉翁肖像/倣杉風画/丙寅年三月十二日八僊観主人摹寫/於洛東雙林寺」と記しているもので、延享3年(1746)3月12日、雙林寺における墨直しで杉風画を写したとみられる(注8)。墨直しとは、支考建立の芭蕉の仮名碑の刻字に墨をさし直す行事で、正徳元年(1711)に美濃派の各務支考が始め、支麦派を中心に引き継がれた(注9)。支考の弟子百川は延享2年に墨直しを主宰し、『八仙観すみなをし』を刊行しているから、二年続けて墨直しをしたとみられる。もう一点はその後、宮津で描かれた芭蕉像〔個人蔵、図3〕で、これは宮津俳壇代々の宗匠に伝えられてきたことが知られている。芭蕉の句を「人の短を― 305 ―― 305 ―

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