鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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いふ事なかれ/己か長を説事なかれ/ものいへば唇寒し秋の風邪」と大きく記し、「芭蕉翁肖像/倣杉風圖/八僊真人寫」と記す(注10)。本図〔図4〕と二点の百川画〔図5、6〕とを比較してみると、太めの墨線で略筆によって描かれるという全体の表現において両者は接近を見せるものの、顔貌の具体的な描写などからは後述するように百川画ではなく、元の杉風画に拠っていることが窺える(注11)。端座の杉風筆芭蕉像の類型は多いものの、その原本は所在不明であり、精巧な写しの存在が知られている。これは蝶夢が飛騨高山の雲橋社中に贈るため、天明期に吉田偃武に模写させた杉風筆「芭蕉像」〔加藤誠氏蔵、図7・9〕で、雲橋社の頭目加藤歩簫氏に伝来した(注12)。蝶夢は明和期に雙林寺で墨直しを主宰し、安永期以降は芭蕉の墓がある義仲寺の復興に力を注ぎ、生涯、芭蕉顕彰に努めた人物である。本図〔図8〕と偃武による杉風画の模写〔図9〕を比べていくと、顔面描写、全体の構図と着衣のおおよその描写がそれぞれ合致し、杉風画を参照していることが窺える。しかし合致しないのが、本図の鼻の角度と鼻に向かって内向きに膨らむ頬の線である。これは鯉屋物として知られる杉風筆「芭蕉脇息図」〔天理大学附属天理図書館蔵、図10〕の鼻と頬の線〔図11〕に近く、同じように脇息にもたれる寛いだ姿の横向きの芭蕉像は、安永期に義仲寺で配布された可能性が指摘される『芭蕉翁終焉記』所収、河村岷雪による杉風画芭蕉像の模写〔公益財団法人芭蕉翁顕彰会蔵、図12〕(注13)にも見られる。雙林寺と大雅の関係は、文化元年(1804)3月刊『大雅堂画譜』の月峰跋(注14)に詳しい。これによれば月峰の師、雙林寺の謙阿上人は若いころから大雅と親しく、大雅の家が窮乏していたので、境内の空き地で大雅に書画を売らせた。往来するものはこれを欲しがり評価した。雙林寺で法会があると大雅と玉瀾は一緒に来て喜んで念仏を唱えた。大雅そして玉瀾が亡くなったあと、大雅社中が相談して、かつて大雅が絵を売っていたところに小堂を建て「大雅堂」と命名したという。この跋文からは、大雅が墨直しに参加する俳人らに書画を売り、法会にも関わりをもった可能性も考えられる。大雅が絵を売っていた場所は、墨直しの会場となった閑阿弥の西隣りに位置していた。杉風筆芭蕉像と大雅との接点を求めて行くと、古くは百川、本図の制作時期に近いところでは、その周辺で杉風系統の画像〔公益財団法人芭蕉翁顕彰会蔵、図13〕が複数作られていた蝶夢に行き着く(注15)。次に賛者の月巣について、その人物と賛の内容、着賛時期について考察する。― 306 ―― 306 ―

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