三、月巣の句賛と本図寒河江出身の俳人、月巣は、本名を山村春安といい、月巣と名乗る前の俳号は、万古・盤古であった。別号に、雪屋人・未来坊・仏足庵・時雨窓がある。出羽国村山郡寒河江の医家に生まれ、江戸で蓼太(芭蕉の弟子嵐雪を祖とする雪門の三世)に師事して俳諧を学び、宝暦14年、駿河国府中研屋町にあった時雨窓を任されて初代看主を務めた。吐月とともに蓼太門の両輪とされ、駿河における雪門を主導した。編著に『俳諧たばこ盆』、『更科紀行』や、追福句集『心一つ』(文母編)がある(注16)。今回、墓所とされる清水寺(静岡県)の許可を得て墓地内を確認したが墓石は特定できなかった。大雅と月巣の関係は直接には見出せないものの、大雅と雪門の関係は、安永4年10月12日、高野山奥の院道に建立された芭蕉の句碑(建立は蝶夢の弟子・塩路沂風)に見られる(注17)。大雅の書は「はせを翁/父母のしきりにこひし雉の聲」とあり、裏に月巣の師・蓼太が「雉子塚之銘」を記す。大雅と雪門および芭蕉、そして蝶夢周辺人物が結びつく点でこの句碑は重要である。なお明和8年の大雅訪問の際、玄悦はすでに雪門の複数の俳書に句が見られるから(注18)、雪門の俳人吾竹として大雅が認識していたかもしれない。本図の月巣の句賛に見られる「月はな(月花)」は、俳諧において風雅の象徴とされ、月花の定座(歌仙一巻の中での月の句、花の句を詠むべき場所)というものが意識された。月巣句でそれらは風雅の象徴であり、俳諧そのものを指しているかもしれない。賛は自ら風雅(月花)を句に詠んで示し、後進を導いていく重責を一人荷って痩せた翁(注19)を称えている。この句は、寛政2年(1790)刊の追福句集『心一つ』(注20)には見えず、まだ雪門の俳書にも見出せていない。月巣は芭蕉の句「月花もなくて酒飲む一人かな」(注21)(元禄2年〈1689〉春、雑無季『阿羅野』所収)を知っていたであろうし、延享2年(1745)刊、北華著『続奥の細道蝶の遊附録』に収録されている杉風筆芭蕉像〔宮城県図書館蔵、図14〕(注22)の杉風の句「月花に世をのかれたる翁哉」の影響を受けた可能性もある。なお今回、月巣の俳号が「盤古」(安永2年1月刊『旦暮帖』は「盤古」、同年3月序『俳諧新選』は「スルカ萬古」)から「月巣」に改名されたその初出が、安永4年正月刊の『三春日記』と確認できた。本図は医師で雪門の俳人であった父に生前贈る目的で制作されたように思われ、直接京都に訪ねての依頼であったかは不明であるが、着賛内容を大雅に伝えて絵を依頼し、安永4年前後に絵ができ、間もなく着賛もなされたのではないかと思われる。― 307 ―― 307 ―
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