1.やしろより先に手をうつさくら哉(三岳道者)寛延3年(1750)以降2.今一翌明月(九霞) 三十代中期か3.としとはれかた一方の手を明の春(無名)明和九年(1772)正月4.音そ水むすはさる手のすゝしさは(大雅堂)安永2年11月2日 ※5.いせの初日獅子と天狗は起出たり(大雅堂)安永3年正月 ※6.愛染霞始靆(大雅堂)安永4年正月 ※7.雪小ゆきまたけの股にたんまれり(大雅堂)安永5年4月以前8.葛粉晒す水まで花の雫かな9.勿体な一足つゝに露の月10.大黒に夏のすかたはなかりけり11.小夜風や寒を蛭子のうてまくり大雅と俳諧との関わりを見ていくと、明和から安永期にかけて盛んに俳諧関係者と接していたことが窺え(注24)、安永3年、4年の蕪村の春帖に続けて入句するなど、安永期には、特に句作が盛んに行われていた状況が見えてくる。四、大雅と俳諧大雅と俳諧に関する出来事、事項を順に並べたのが〔表1〕であり、以下に大雅自作とされる句を挙げた。俳号が分かる場合は( )に記し、大雅生前に版行された句集・春帖掲載の句に※を付けた(注23)。五、『俳諧新選』(安永2年刊)「無名氏」の句と大雅筆「水流帖」安永2年(1773)3月序、炭太祇・三宅嘯山編、京の書肆・橘仙堂善兵衛から出版された『俳諧新選』(注25)には「無名氏」の句(「夕月の細殿に梅薫る也」ほか7句)が見られる。無名氏は無名子とも書いて、通例は作者が不詳であることを示す。『俳諧新選』の作者を見ていくと、作者不詳の場合は「欠作者」、作者の所在地と所属は分かるが作者が特定されない句は「宇治田原社中」のように表記される。序には出版地の京の俳人が中心であることが記されていることから「無名氏」は京の俳人の俳号と見られ、大雅の可能性がある。これに関連するのが、未刊に終わったとされる版本『水流帖』(注26)の殿村亜岱跋(安永4年8月)である。俳人でもあった亜岱はこの跋で大雅のことを指して「無名子」と呼んでいる。『水流帖』は大雅の草書「水流帖」を版木に起こし、亜岱が跋を書いて出版しようとしたが大雅はこれを許さず、刷り上がった本をすべて引き取って焼いたことが知られる。これは俳号「無名氏(子)」での、密かに忍ばせた句作を― 308 ―― 308 ―
元のページ ../index.html#320