注⑴本図は新型コロナウイルスの影響で拝見できなかった。実見後には再考したい。⑵本図を元に描かれたとみられる作品がある。『松尾芭蕉と「おくのほそ道」展図録』三重県立伏せるために、その跋を伴う出版を、拒絶、抹消したのではないか。所在が確認された『水流帖』原本の大雅の署名を見てみると、その草書体の崩しが本図の署名に極めて近く(連印「霞樵」との組み合わせも同じ)、これは共に安永4年頃という「水流帖」と本図の近い制作時期を示しているように思われる。おわりに雙林寺は、大雅が生まれる以前に、芭蕉の弟子で、百川の俳諧の師であった美濃派の各務支考によって芭蕉追悼の地と定められて以降、支麦派を中心に毎年春三月に墨直しの行事が行われた俳諧の重要拠点であった。大雅の「芭蕉像」は、俳諧関係者が雙林寺や俳諧書肆を訪ねる折に、合わせて大雅を訪問して絵を依頼するような状況を想像させ、また百川や蝶夢、吉田偃武も見た杉風画の原本や、他の杉風画を大雅も参照している可能性も考えられる。本図は大雅が雙林寺、俳諧関係者と深い関わり関わりを持っていたからこそ成立し得た絵ではなかったかと思われる。大雅が「芭蕉像」を描いた時期は、百川が杉風系統の芭蕉像を描いて三十年ほど経過した頃、蕪村が盛んに芭蕉肖像を描く安永7~8年よりも数年前のことである。大雅筆「芭蕉像」は大雅と雙林寺、彭城百川、芭蕉、俳諧との繋がりを物語る作品であり、賛者月巣の出身地である山形県内に現存することも含めて極めて重要な作品といえる。美術館、1997年、図86⑶『寒河江町町史編纂研究叢書』1、寒河江町町史編纂委員会⑷図4、5解説。岡田利兵衞「画かれた芭蕉」『国文学 解釈と鑑賞』41-3、至文堂、1976年、72-76頁(『岡田利兵衞著作集Ⅰ 芭蕉の書と画』八木書店、1997年、112~119頁に再録)にも本図への言及がある。⑸宮次男「芭蕉の風貌」、126-128頁⑹寒河江市立図書館阿部酉喜夫文庫蔵、出品番号23⑺芭蕉像については主に以下の文献を参照した。阿部喜三男「芭蕉の肖像考」『国文学』8-10、1963年、56-64頁。石川真弘「杉風筆『芭蕉翁座像図』記」『ビブリア』87、1986年。同氏「俳人肖像画私記」『ビブリア』102、1994年。横浜文孝「芭蕉の肖像─そのデフォルメの過程について─」『江東区文化財紀要』7、1996年、1-31頁⑻『知られざる南画家 百川』名古屋市博物館、1984年、参考図版18。佐々木昌興氏旧蔵で焼失したとされる。51.2×29.1cm。白い袴、あぐらをかく姿は青木夙夜筆「芭蕉像」(東京国立博物館蔵)、芝山画・闌更賛「倣杉風筆芭蕉像」(夢望庵文庫蔵)に近いか。― 309 ―― 309 ―
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