⑼田中道雄・田坂英俊・中森康之編著『蝶夢全集』和泉書院、2013年。田中道雄「蝶夢の俳壇登場をめぐる諸問題(下ノ一)」九州大学国語国文学会『語文研究』30、1971年、1-17頁。田中道雄「翻刻・蝶夢編『墨直し』六種」佐賀大学教養部『研究紀要』28、1996年、1-35頁。金子はな「『雙林寺碑銘註昼錦抄』翻刻と解題」『日本文学文化』17、2018年、33-45頁。『生誕320年記念特別展 五十嵐俊明─越後絵画のあけぼの─』新潟市歴史博物館、2020年が明らかにするように、延享元年(1744)22 歳の大雅と交流があった五十嵐俊明が美濃派の俳人であったことは、大雅と雙林寺の関係を考える上で重要である。⑽縦85.1×横25.1cm。『蕪村展図録』茨城県立歴史館、1997年、図70伊藤太氏解説。伊藤太「『与謝蕪村と丹後』展その後」『蕪村全集』6、月報6、1998 年、講談社、9-11頁。横谷賢一郎「彭城百川の芭蕉像と宮津俳壇」『宮津市史 通史編下巻』(第二節 宮津の近世絵画/六 与謝蕪村と宮津)宮津市史編さん委員会、2004年、494-496頁⑾百川には他に扇を持った正面向きの謹直な芭蕉像(木版画)があり、「芭蕉翁肖像/湖南義仲寺/八僊観百川法橋寫」と記す。義仲寺に一点所蔵されるほか、宮城県図書館蔵『続奥の細道蝶の遊附録』の封面貼付や、『南画鑑賞』8-4、1939年、19頁掲載の図もある。⑿『漂泊の詩人 芭蕉展─遺墨でたどるその詩と人生─』俳文学会・日本経済新聞社、1981年、図1に掲載。前掲注⑺阿部氏論考は、杉風画の原画は、芭蕉三回忌の頃、杉風から近江の正秀へ贈られ、文素、京都・唯信寺に伝わったが、今は所在不明とする。⒀田中道雄「『芭蕉翁絵詞伝』の性格(下)」『鹿児島大学教育学部研究紀要・人文・社会学編』30、1978年、256頁⒁佐々木米行『大雅堂記』、池大雅美術館、1984年、第8図。月峰については、田邉菜穂子「双林寺の画僧月峰のこと─田能村竹田・頼山陽関係資料より探る─」『語文研究』103、九州大学国語国文学会、2007年、19-35頁に詳しい。俳諧と関わり、芭蕉像(早稲田大学図書館蔵)も描いている。⒂「蕉翁画像讃」を記す天理大学附属天理図書館蔵の杉風画模写などが知られる。前掲注⑼『蝶夢全集』(文章篇)解題726頁。蝶夢の明和2年から天明5年頃までの句を収める『草根発句集酒竹甲本』に「祇園の大雅堂か旧梄葛居にて、往事をおもふ/門口も戸さして葛のうらかなし」の発句と、大雅の猿引の図への句賛「世の中は朝三暮四や草の露」がある。前掲注⑼『蝶夢全集』71頁、89頁⒃月巣については『俳文学大辞典』角川書店、1995年の加藤定彦氏解説が詳しく、参考文献も網羅されている。⒄出口対石『芭蕉塚』長崎書店、1943年、255頁⒅『夏引集』(宝暦11年刊)、『続夏引』(宝暦12年刊)、『養老八詠集』(明和元年刊)。⒆享保20年(1735)序の『水鶏塚』に、芭蕉晩年の容貌が「痩がれたる形容」とあることが知られる。⒇『心一つ』に「大雅」の句が四句載るが、池大雅であるかは不明。月巣周辺の雪門の俳人で月巣没後も存命であった人物の可能性もある。 『池大雅画譜』No. 643に同句を賛とした芭蕉像がある。 半田卯内旧蔵書。北華によれば芭蕉の弟子晋流所持の杉風筆芭蕉像の写しという。 1:人見少華「池大雅評伝11」『南画鑑賞』9-4、1940年参照。図版掲載あり。2:『池大雅画譜』No. 141「牛祭画賛」。3:「池大雅掌跡」(佐々木米行『大雅堂記』池大雅美術館、1984年、28図)及び『蒹葭堂雑録』巻之一参照。4:『俳諧四季発句集』(松木淡々十三回忌追善句集)― 310 ―― 310 ―
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