鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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* 天保3年(1832)、青々『続俳家奇人談』「大雅堂 附玉瀾」で『東牖子』の記事を引用する。* 安政4年(1857)以前成立とされる、三浦若海編『俳家人物便覧』「大雅」の項に「書画及び表1 池大雅の俳諧関連略年表(未定稿)* 延享2年(1745)3月12日、彭城百川が雙林寺で墨直しを行う(『八仙観すみなをし』)。「この頃、聖護院より知恩院袋町へ移居。東山雙林寺山門(後ノ大雅堂跡)路傍に書画を売る。」(人見少華「池大雅年表」『南画鑑賞』7-7、1938年)。* 延享3年(1746)3月12日、彭城百川が雙林寺で墨直しを行い、杉風画に倣った「芭蕉像」を* 寛延4年(1751)大雅29歳、4月9日付書簡に、玉瀾、百川の名がでる(大雅筆『布士司馬宛書簡』)。4月以前に玉瀾と結婚か。「祇園下河原鳥居前神福院の内に居す」(『池大雅家譜』)。*元禄9年(1696)、各務支考(美濃派)が雙林寺で芭蕉三回忌を修す。*宝永3年(1706)、支考が雙林寺で芭蕉一三回忌追善法会を修す(『東山万句』)。*宝永7年(1710)、支考が芭蕉一七回忌に雙林寺に翁の仮名碑を建立(『東山万句』)。* 正徳元年(1711)、支考が雙林寺で碑面の刻字に墨をさし直す行事(墨直し)を始める(『墨なをし』)。■享保8年(1723)5月4日、池大雅誕生。* 延享元年(1744)大雅22歳、越後の画家で美濃派の俳人だった五十嵐俊明の餞別に「渭城柳色図」を描く。描く。*明和2年(1765)から6年間、蝶夢が雙林寺で墨直しを行う。※『平安人物志』明和5年版住所は、大雅が「知恩院袋町」、玉瀾が「祇園下河原」。*明和6、7、9年、下郷学海が大雅に絵を依頼。* 明和8年(1771)5月、山形寒河江の安孫子東岡(のち美濃派俳人として郷里で活躍)が大雅を訪問し、絵を依頼する。月巣の父で医師の山村玄悦(雪門俳人)も大雅を訪問したか。同年、下郷学海の依頼で、蕪村と「十便十宜図」合作。*明和9年4月、「大雅五十賀掌痕帖」に歳旦句が載る(『蒹葭堂雑録』)。* 安永2(1773)年大雅51歳、4月8日、下郷学海と従兄の蝶羅が大雅を訪ねる(下郷蝶羅『続多日満句羅』)。同年11月2日、松木淡々の十三回忌に句を寄せ『俳諧四季発句集』に一句載る。*安永3年、蕪村『安永三年春帖』に大雅の句が一句載る。*安永4年、蕪村『安永四年春帖』に大雅の句が一句載る。* 安永4年10月12日、高野山芭蕉句碑建立、碑の表の芭蕉句の書は大雅、裏の銘文は蓼太、建立は蝶夢の弟子沂風。※『平安人物志』安永4年版住所は、大雅、玉瀾ともに「祇園下河原」。*安永4年前後に、大雅筆「芭蕉像」が制作され、間もなく月巣が着賛したか(筆者推定)。■安永5年(1776)4月13日、池大雅没。*安永5年初冬、几董編『続明烏』「冬の部」に大雅の句が一句載る。* 安永5年4月、蕪村が金福寺境内に芭蕉庵を再興したのを機に、同7~8年にかけて「奥の細道」俳画や芭蕉像を多く手掛ける。*天明期、蝶夢が吉田偃武に命じて、杉風筆「芭蕉像」を模写させる。*寛政7年(1795)、佐々木閑空『きまかせ』に『安永三年春帖』の大雅の一句が再録される。* 享和3年(1803)、田宮橘庵『東牖子』に大雅の句を二、三句聞いたことがあるとし、二句(いくつじやと問われて片手明けの春/葛粉晒らす水まてはなの雫かな)掲載する。俳諧が専門ではなかったからその句を知る人は少ないと述べる。俳諧を善くする」と記される。― 314 ―― 314 ―

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