を立てて油彩画を描く人の様子も身近に見ていたという。大正12年(1923)の関東大震災で家は焼失したが、身を寄せた親戚宅の次男で当時、東京帝国大学の学生であった高橋良之助との交流により、彼の持っていた西洋絵画の画集を眺め、議論する機会に恵まれた。その後、麻生は「キリスト教による人格教育」を目的とした明治学院中学に進学する。同校では友人たちと美術部を作り、油彩画を描き、展覧会を開いた。昭和5年(1930)春、中学を卒業した麻生は太平洋美術学校選科に入学する。絵を描くことが生活の中心となり、後に美術文化協会や新人画会に共に参加する寺田政明、吉井忠、松本竣介らを知る。しかし、ただひとり絵画表現について熟考するようになった麻生は昭和8年(1930)に美術学校を退学した。この時に抱えていた問題は麻生のヨーロッパ行きを後押しした。絵筆を動かすだけではなく、絵画の根底にあるものを思想から掴もうとする彼の探究心は兄のように慕っていた高橋やその友人たち芹沢光治良や谷川徹三、柳宗悦といった年長者たちとの交流により培われた部分もあるだろう(注4)。それは例えば、麻生がこの頃「対立的な志向の原則」つまり二項対立で思考していたことなどに確認できる。昭和9年(1934)頃に書いたという「交流」という文章の中で麻生は二つの概念を次のように説明した。 自分は絵画の無機的レアリテと有機的レアリテの交流を一元的に考えて仕事をはじめた。一個の存在で目的であるもの。表現でないもののそれ自身を創造することに意慾をもつ。連想分子の排撃は絵画の純粋性を高めるために激しかった。無機的レアリテと有機的レアリテの交流があること、この交流に問題はあるし、人間的レアリズムの出発がある(注5)。「無機的レアリテ」と「有機的レアリテ」について麻生は別の回想の中で「画面に則した質のもの」と「生きものとしてレアルな生々しい質のもの」、「植物的」と「動物的」などと言い換えている(注6)。麻生のいう「無機的レアリテ」「画面に則した質のもの」「植物的」は造形主義的な考えによる、静的な表現である。対する「有機的レアリテ」とは「熱っぽい無意識の性格で、画家の肉体を押し出すような一種のレアリズム」つまりは動的で内面的な表現のようだ。ふたつの異なる考えからリアリズムを追求する方法を麻生は模索した。この問題を彼は絵画上でも解決しようと試みたものの前者が《海》〔図1〕であり、後者が《馬と人》〔図2〕である。《海》の細長い画面には、砂浜と水平線があり、手― 316 ―― 316 ―
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