ス絵画、そしてゴッホ、アンソール、スーチンの作品などにギリシア以降の伝統を見出し、共感していたのではないか。第3章 帰国後、戦時下の麻生と西洋古典絵画麻生は西洋古典絵画への想いをより一層強めて帰国した。友人の吉井はその様子を昭和13年11月1日の日記で「麻生Parisから帰へり池袋に姿をあらはす。(中略)クラシックにあこがれてゐる」と記している(注14)。帰国後の麻生は都内の実家を出て吉井らの暮らす池袋のアトリエ村に移り住んだ。この頃の麻生の西洋古典絵画に対する考えは現在、個人蔵の吉井の日記の中に確認することができる。昭和11年(1936)から昭和20年(1945)の終戦までつけられていた吉井の日記にはその日に会った友人のこと、自身の制作や家族のこと、戦争や空襲のことなどが幅広く記録されている。吉井もまた昭和12年にパリを中心としたヨーロッパ滞在の経験があり、麻生とは互いに西洋絵画を直に見てきた仲間として語り合い、日本で絵画をいかに発展させるべきかを議論した。麻生の名は日記の昭和14年(1939)から昭和16年(1941)頃にかけて頻出するが、麻生に会ったという記録のみのこともあり、彼らの話の内容の多くは不明である。しかし、例えば昭和14年6月4日に安孫子の家を訪ねて洋書を見て語り合ったことや同月10日に「午前 寺田を訪ねヴェラスケースの複製を見て一緒に麻生等とcaféをのむ、麻生の60号を一寸ヒハンする」とあることからは、日本に戻ってからも画集などを元に西洋絵画を学ぼうとする熱心な姿が見えてくる。また、同月14日の「夜 麻生君と日本に於ける西洋画の発展の限界について話す」、昭和15年1月21日の「朝、麻生君とcaféのみ画論する。/おれは「絵画の体系」彼は「絵画の出発」」といった記述からは、共に西洋絵画を見てきた画家が日本という場所で油彩画を自分たちの手で発展させようと考えていたことがわかる。そして麻生自身は帰国後「絵の世界ではふり出しに戻ったような状態で、私なりに自分の歴史を作らなくてはならないと思いつつ第一歩の仕事を始めた」と述べているように、新たな気持ちで絵画に取り組んだ。昭和15年(1940)4月に行われた第1回美術文化協会展で麻生は昭和12年(1937)の旧作、パリ滞在中に街角を描いた風景画、そして《青年像(男)》、《とり》などを発表した。《青年像(男)》〔図4〕は、暗い背景に人物が浮かび上がるように正面で描かれた、西洋の伝統的な肖像画の構図に即した作品である。《とり》〔図5〕もまた、西洋で古くから描かれたモチーフで、吊るされた雉が写実的に表現されている。それらの作品は美術評論家の瀧口修造が指摘するように「クラシックな方向に肉迫しようとする意欲」が表現されたものであった― 320 ―― 320 ―
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