鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
333/602

(注15)。ルネサンスやフランドル絵画といった西洋古典絵画を思わせるスタイルで描いていた麻生だが「一九四一年をさかいにその前と後と敗戦までの時間は忘れることが出来ない」と述べているように、昭和16年以降、彼の作品は変わっていく(注16)。この変化は日本が本格的な戦時体制に入りつつある中で、麻生を取り巻く環境が一転したことにも起因するだろう。同年4月に麻生の参加していた美術文化協会の代表、福沢一郎がシュルレアリスムと共産主義との関係を疑われ、治安維持法違反の嫌疑で拘束された。吉井の4月9日の日記には美術文化協会展は予定通りに開催することが決まったものの「古沢、麻生、寺田の作品を一応検討して自粛を促す。(中略)夜 麻生君 ユーウツになって来る」とある(注17)。麻生が「自粛」を促された作品が具体的にどれなのかは不明だが、西洋絵画の影響が色濃く反映された彼の作品は問題視されたようだ。麻生の昭和18年(1943)の《自画像》〔図6〕を昭和16年4月より前に描かれた《男(自画像)》〔図7〕と比較すると違いは明らかである。《男(自画像)》は暗い背景に光を浴びて立つ半身像で描かれたおり、西洋のルネサンスの画家をはじめ、麻生が関心を持っていた画家ではレンブラントやゴヤの自画像を思わせる構図である。描き方も西洋の伝統的な絵の具の塗り重ねによる仕上げで、肌やシャツなどの質感も再現されている。一方、《自画像》の構図は西洋絵画においても一般的なものだが、同作は筆跡をあえて残し、背景も顔も服も均一に仕上げられている。やや荒い筆跡が集まることにより、画面全体が濃密になり、作品を観る人に押し迫ってくるような緊張感が生まれる。この筆跡は麻生が対象を見つめた、視線の一つ一つと一体化して重なり合っているようた。そのため、画面全体の中でも顔、とりわけ眼の部分にカメラで撮影する時のようにピントが合うのである。画面は年を追うごとに濃密になり、自身の娘を描いた1944年の《一子像》〔図8〕のように顔や体の輪郭が曖昧になるまで色が重ねられるようになった。それは美術評論家の土方定一が指摘するように「明暗の集積されたプラン(面)の追求の仕方で、丹念に、丁度、彫刻家の指先のような感覚で追求」されたものであった(注18)。西洋絵画を形式的に受け入れるのではなく、油彩画の伝統のない日本でどのように伝統を作っていくべきかという問題は、麻生のみならず、友人の吉井やヨーロッパに出かけていないものの図版などを通じて学んでいた松本竣介、日本画の手法にも関心を持っていた靉光の作品なども取り組んでいたと考えられる。この視点に立つと、戦時下に画家たちの自由な創作活動が完全に弾圧されたとは考え難い。むしろ彼らは古典に学びながら、これまでにない絵画を確立しよ― 321 ―― 321 ―

元のページ  ../index.html#333

このブックを見る