鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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㉚ 西山翠嶂の初期画業における人物表現に関する一考察研 究 者:海の見える杜美術館 学芸員  森 下 麻衣子はじめに西山翠嶂(1879~1958)は明治のはじめ、京都・伏見に生まれ、戦後に至るまで京都で活動した日本画家である。近代日本画の巨匠・竹内栖鳳の門で日本画を学び、やがて洋画家・浅井忠(1856~1907)に洋画デッサンを学ぶ。京都市工芸品展に「箕面瀑布図」を出品し褒状、1895年(明治28)第四回内国勧業博覧会に「平軍驚水禽」を出品、こちらも褒状を得るなど、若年の頃からその才能を示し、1907年(明治40)文部省美術展覧会(以降、文展とする)に文部省美術展覧会が開催されて以降、不出品の年を挟みつつも官展での目覚しい活躍を続けた。1919年(大正8)、帝国美術院展覧会(以降、帝展とする)第一回から審査員を務める。現在の京都市立芸術大学の前身、京都市立絵画専門学校で教鞭をとり、同校及び京都市立美術工芸学校校長という要職についた。彼の画塾・青甲社は、京都でも特筆すべき規模の画塾であり、堂本印象(1891~1975)、上村松篁(1902~2001)、秋野不矩(1908~2001)ら次代を担う俊英を輩出、翠嶂と塾生らで行う展覧会は図録が発行され、その他にも雑誌「青甲」でその活動を報告し続けていた。以上の事から見ても彼が画壇において長く重きをなし、その影響は当時非常に大きかったと思われるものの、いまだ充分な研究がなされていない画家である。主要な作品が散逸していることもあり、画業を一望する回顧展の機会が充分にあったとは言い難く、2016年(平成28)浜松市秋野不矩美術館にて「石井林響と西山翠嶂」、2018年(平成30)に海の見える杜美術館にて「西山翠嶂─知られざる京都画壇の巨匠─」が開催されたのがその数少ない例であり、現存の代表作品が一堂に並ぶことはいまだなされていない。拙稿「西山翠嶂の画風に関する一考察」(「西山翠嶂─知られざる京都画壇の巨匠─」展覧会図録に収録)にて、彼の画業の変遷を追うことを試みたが、彼の初期の画業(後述するが、ここでは特に文展開始以前)に関しては当時現存する作品を実見する機会がなく、印刷物等に残された画像から考察するのみにとどまった。この数年で、いくつか初期の作品が公開されたことを受け、それらを実見し調査することによって判明した、彼の若年時の画風形成について本論では論じてみたい。第一章ではあまりまだ知られていない文展以前の作品を、現存している実作品、雑誌等に残されている作品画像、下絵等をもとに詳細に見ていく。第二章では文展に出品した作品を中心にその変遷を見る。第三章では、彼が絵画を学び始めた当時の美術― 327 ―― 327 ―

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