界を概観し、彼が京都画壇の竹内栖鳳門下にあって、東京の活動を視野に入れていた可能性を述べてみたい。第一章 文展以前の作例西山翠嶂(本名・卯三郎)は、1879年(明治12)京都・伏見に生まれた(注1)。絵や習字が得意であった翠嶂は、当時の京都における日本画の大家・幸野楳嶺(1844~1895)夫人の口添えにより、竹内栖鳳の門に入った。栖鳳門に入った頃どのような指導があったかという点に関しては、楽涛山人による「西山翠嶂伝」(『都市と芸術』第30巻第304号)に記述がある。それによれば、「最初に手本を渡された。(中略)栖鳳はその時翠嶂に熨斗を描いて與へた。それは運筆の手本であったから、四条派のつけたてで描がいてあった。」とあり、当時の栖鳳画塾ではまず運筆を学んだようである。月に二度の郊外写生の日もあったらしく、そこで翠嶂ら門下生は京都近郊の風景を写し描くことも学んだという。おそらくは花鳥や昆虫等の写生も行ったであろう(注2)。また、翠嶂曰く、その頃の栖鳳は「古典の研究熱の熾んな時代であったから、その心懸けを私達への頻りに奨励された」(注3)という。以上より、翠嶂は、栖鳳のもとで絵画を学ぶにあたり、①運筆修練、②写生、③栖鳳はじめ先人たちの絵画や古画を模写という教育を受けたと思われる。前述したように、西山翠嶂の作品、特に展覧会等に出品した作品は散逸しており、現存する作品は彼の実績を考えるとそれほど多くはない。現在、現存する中で最も古い作品と思われるのは、《堀川夜討》(挿図一、飯田市美術博物館寄託)である。高木多喜男氏による年譜(注4)によると、明治31年(1898)に第五回日本絵画協会・第一回日本美術院連合絵画共進会に《堀川夜討》を出品、三等褒状を得ているとある。飯田市美術博物館に寄託されている《堀川夜討》〔図1〕は、翠嶂自題の箱があり、箱裏に「此図明治三十有餘年作翠嶂自題」とされていることから、それに該当すると見てよいと思われる。明治20年半ば以降、画壇全体の傾向として歴史的な画題が描かれるようになっており、それは東京に限ったことではなく、師の竹内栖鳳も明治27年(1894)の京都市工芸品展に《富士川大勝》(東京国立博物館蔵)を出品、栖鳳と同門の谷口香嶠(1864~1915)もまた《賊兵襲多治見国長邸図》(敦賀市立博物館蔵)を出品するなど、当時翠嶂が範とすべき周囲の最も意欲的な画家たちが歴史画を描いていた。また翠嶂の二つ年上の今尾景年門下の画家木島櫻谷もまた、明治30年(1897)第一回絵画共進会(後素協会主催)に歴史主題と思われる《忠臣身を殺して主を救ふの図》を出品している(注5)。こうした流れは、明治27年(1894)日清戦争勃発に― 328 ―― 328 ―
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