鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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よって巻き起こった日本国民の国威発揚も外的要因として歴史画の需要に影響を及ぼしたと見ることができ(注6)、翠嶂もおそらくはごく自然な流れとして歴史画主題に取り組んだことと思われる。明治28年(1895)京都岡崎で開催された第四回内国勧業博覧会に出品した《平軍驚水禽》(前年に栖鳳が描いた《富士川大勝》と主題は同じである)、明治29年(1896)大阪市立日本絵画共進会に出品した《正行詣吉野皇居図》、明治30年(1897)京都後素協会主催第一回全国絵画共進会出品の《義光勇戦図》等、十代半ばの頃から歴史画に比重を置いてその腕を試しているように見られる。《堀川夜討》はそうした流れの中で描かれた。さて、《堀川夜討》を見ていきたい。本作品は源義経が兄・頼朝の急襲に気づき外の様子を伺い、愛妾・静が、弓などの武具を取り揃え駆け寄る場面である。主に描かれているのは、義経と静の二人であり、画面下に身を乗り出し座る義経、画面上部右に駆け寄ってくる静が見切れて描かれる。義経の膝近くには赤い武具や矢の束が乱雑に転がされており、それらと今まさに駆け寄ってきたようなポーズで描かれる静によって、その緊迫感を感じ取ることができる。とはいえ、戦の混乱等を匂わせるのはそれらのみで、抑えた表現や静の憂いを帯びた表情に格調の高さを感じさせる、翠嶂十九歳の力をいかんなく発揮する優品である。堀川夜討自体は、住吉如慶による《堀川夜討絵詞》(東京国立博物館蔵)などの絵巻や、浮世絵などにも描かれる画題であるが、そうした前例では義経の従者たちも含め、戦の場面等も見どころとして描かれるのに対し、翠嶂はあくまでも義経と静二人の感情の動きに焦点を置いている。頭身等を見ても、現実の人間に近いものとなっており、歴史的な出来事を、現実に見えるように再現することにも重きを置いていることが伝わる。義経の顔、手の関節には陰影が付けられ、立体感を出すように描かれている〔図2〕。鎧は細部まで描き込みがなされており、弓もまた、厚みのあるものとして、斜めから見た姿に忠実に描こうとしていることが分かる〔図3〕。これらの表現は特に目立って新しい表現というわけではないが、前述のとおり歴史的な出来事を現実的に見えるように描くという姿勢の表れということは言えるだろう。義経が来ている白い着物は、一部、わずかに縁を残し灰色に着色されている。これはおそらく翠嶂が試みた陰影表現ではないかと考えられ、画面上部に描かれる、襖の奥に置かれた燈台の火に照らされて落ちる影を表しているものと見ることもできようか。前述したように、当時は歴史画を描くことが画壇全体の傾向としてあり、ほとんどの画家が歴史主題を近代的に、つまり近代的な身体、空間のとらえ方をもって描き出すことに主眼を置いていた。特に谷口香嶠にそれが顕著であり、明治27年(1894)《資― 329 ―― 329 ―

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