朝卿東寺避雨図》(京都国立近代美術館蔵)は、線遠近法を用いた空間の中に、現実的な頭身を持つ人物を立たせている。翠嶂が描く義経と静も、それと同じように現実を志向して描いたものであるが、香嶠に比べてぐっと人物に視点が寄り、表情や動作によってそのドラマ性を語ろうとしている点、光源を意識していると思われる光の表現などの点には、師栖鳳にも見られなかった彼の独特の現実感の追求の仕方があるように思われる。次に、明治32年(1899)《悉多発心図》(福田美術館蔵蔵)〔図4〕を確認しておく。この作品は第七回絵画協会・第二回日本美術院連合絵画共進会出品、一等褒状を得た作品である。釈迦が愛馬と従者と共に城を出る場面を描いた作品で、やはり人物を画面に大きくとらえて描く。中央やや左の釈迦は右方向を見据えながら、身をよじり、馬の鞍に手をかけている。馬は大きく頭を下げ、力強く地面を踏みしめている。画面左端は釈迦の宮殿であろう、装飾の施された柱が描かれ、そこから覗き見られた光景のような役割を果たしている。宮殿の壁等を描く背景はやや平坦でもあるが、そのことにより画面中心にいる人物たちに目線が集中する効果もあるのであろう。釈迦の体は八頭身ほどの頭身で描かれている。やや左肩と腕の繋がり等が不明であるが、体をひねり、顔が向いている先とは逆の方向に腕を伸ばし、そのために顎が肩で隠れるという複雑な体の動きを描き出すことに挑戦している。柔らかい衣の中で、肘、膝という関節を曲げて体のバランスをとっているということも読み取ることができる。またその衣服は、細部に至るまで緻密に描かれており、さらに身に着けているベルトは様々な色を置いており、おそらく瑪瑙などの複雑な色味を持つ石の質感、石が反射する光をも伝えている〔図5〕。《堀川夜討》で見せたような強い陰影ではなく、柔らかな色の濃淡の変化によって、釈迦の体を取り巻く衣服のふくらみが表され、洗練された印象を受ける。これらを初期の出品作を見るに、栖鳳画塾で学びながらも、師の栖鳳があまり描かない人物画、特に歴史主題で頻繁に勝負に出ており、しかも光や、ものの質感等を表すことによって歴史的な出来事を語る上で現実味を演出しようとしていることが見て取れる。師の栖鳳は写生、目の前の事物を観察し、本当の姿をとらえることを重視し、多くのスケッチ、写真資料を残しているが、師の栖鳳が見たものや光景を絵画としてそのまま画面に落とし込んでいるように見えるのに対し、翠嶂は物の質感、光が物体をどのように回り込むのか、それをまず忠実に探りとらえることに興味を持っているように思われる。このような興味を持つ翠嶂が、人体をより理解するために洋画のデッサンを学ぶことになるのは必然のことだったのかもしれない。翠嶂は、この後、― 330 ―― 330 ―
元のページ ../index.html#342