鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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明治35年(1902)に渡欧を終え京都にやってきた浅井忠の門を叩くこととなる。ただし、翠嶂が写実的な人体の表現を浅井忠に師事することによって得た、と考えるには少々注意が必要である。海の見える杜美術館が所蔵する西山翠嶂下絵資料の中に「緑陰閑話」と書かれた大下絵があり〔図6〕、これはおそらく明治35年(1902)4月の第八回新古美術品展に出品した《緑陰》の下絵であろうと思われる(注7)。本画は現在所在が不明であり、下絵しか残っていないが、どのような特徴を持つ作品だったのかを見ていきたい。大きな木の前で、婦人が二人語り合っている場面である。手前の婦人たちと樹木の向こうには家屋があり、窓とカーテンの隙間から中をうかがうことができる。テーブルの上に乗せられた香炉からは細い煙がまっすぐ上り、しんとした静かな空気を物語っている。この下絵の人物は、首と頭の繋がり、手指の曲がりかたがかなり写実的に描かれている。右の人物は斜め後ろから見ており、肩は短縮されて見える、いわゆる短縮法というべき手法が使われており、西洋のデッサンが活かされているようにも見える。出版物に図版が掲載されていることから、明治35年(1902)6月以前に制作された作品であることはほぼ間違いがなく、同年の9月に帰国した浅井忠から学ぶよりも以前に、本資料に見られるような写実的な人体表現を会得していたということになる。西洋のデッサンを浅井について学んだことは確かではあるが、その下地はそれ以前からあったことを指摘しておきたい。翠嶂は、前述のとおり、栖鳳の門で学びながらも、洋画のデッサンを学ぶために当時京都に住んでいた浅井忠の門を叩いた。浅井は、工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi,1818~1882)に学び、東京美術学校(現・東京芸術大学)の教授になったのち、明治33年(1900)よりフランスへ留学、二年後帰国したのちに京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)で教鞭をとった。京都において、洋画家だけではなく日本画家の中で浅井に指導を受けたものもおり、西山翠嶂もそのうちの一人であった。その当時のことを語っている。「私は年少の時代に、京都洋画界の先覚者浅井忠先生が、高等工芸学校に教鞭をとって居られた際に、デッサンを学んだことがある。最初、石膏のギリシャ彫刻の首のモデルを与へられて、その練習をやった」(注8)という言葉からは、彫刻を用いた本格的なデッサンだったことを伺わせるが、浅井は日本画家たちが安易に洋画に転向することを危惧し、「日本画の素養を少しでももつ私には、初発から、毛筆でやってのけることを頻りにすすめられた。実体の正確を期するには変りはないが、デッサンの重点とするところは、寧ろ線描のうへに感情の強調とでもいふか、さういうところに日本画のおもしろいところがあるから、これをよく保存しておかなくてはいけない──といふ。率直にいへ― 331 ―― 331 ―

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