鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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ば、写生としてのかんどころを暗示されたものと思ふ。」(注9)という翠嶂の言にあるように、日本画の表現を殺さずに対象を正確に写すことを目的とした教育だったようである。浅井にデッサンを学び始めたのがいつなのかは、はっきりとした時期はわからないが、早くて明治35年(1902)9月以降ということになる。第二章 文展初期の作品第一章では翠嶂が画業の始まりにおいて、歴史画や宗教画題等、人物表現に意欲的に取り組んでいることと、その特徴について述べた。以降、それがどのように変化していくのかを、初期の文展出品作品を見て考察していきたい。明治40年(1907)第一回文展出品作《広寒宮》(京都市美術館蔵)〔図7〕は、仙女の住まう中国の伝説上の月の世界を描いた作品である。翠嶂が得意としていた人物画であるが、前述の《堀川夜討》《悉多発心図》に見られるような画面全体に及ぶ背景の描きこみはなく、樹木と建物の一部、雲霞というわずかな背景を描くのみである。本作の主体は楽器を演奏する美しい仙女たちで、計八人の仙女たちを、正面、真横、斜め後ろと、様々な角度から描いている。空間の中で、それぞれ異なる楽器を持ち、あらゆる動きをする人物たちを空間の中に息づかせようという試みであろうか。女性たちの顔にはハイライトがほどこされ、鼻筋、瞼の丸みが分かるように描かれている〔図8〕。左隻左端の木の根元に座る人物の肩や膝には強い光を示すように胡粉による線が引かれている。中国明時代に描かれた伝仇英《仕女図巻》などの仕女図を参考にした可能性も示唆されており(注10)、中国の伝統的な女性の群像図を、近代的な肉付けを行ったのが本作品とも言えよう。第二回文展出品は《転迷開悟》である。本作は現在その所在は不明となっているが、当時の図録の図版と残された大下絵により確認ができる〔図9〕。宗教的なテーマに取り組んだ作品で、市井の人々が、女性を指差しながら杖をついた老人に対し質問をしている。本作はほぼ人物だけで構成され、服装やしぐさなどで様々な人々の物語の役どころを描き分ける。特徴的な点として挙げるべきは右手前の横たわる人物たちの裸体、中央のこちらに背を向ける人物の腕など、やや不自然さはあるものの関節の曲げ伸ばしを描いていることで、西洋的なデッサンが活きていると言うべきであろう。第三回文展では当時の風俗を描いた《花見》(福田美術館蔵)〔図10〕を出品している。奥の華やいだ花見会場に向かって、傘をさして歩む女性、子供を肩車する男性、ものを売る男性と視線を誘われる。本作品のような群像表現、それも当時の風俗を描― 332 ―― 332 ―

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