鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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くことは、明治33年(1900)に《放鳥》という作品でも試みており、何気ない風景をそのままとらえるように写し出そうとしているようである。《花見》は、まさにそのような作品である。手前の傘を持つ女性が近景となり、子供を抱いた男性や、画面右の目かつら売り等の群像が中景、桜の木々や提灯が遠景となり、層状に重なることによって奥行きが生まれている。この作品に関しても大下絵と小下絵が残されており、人物の一人一人、場合によっては人物の足のみを入念にスケッチして本作品に臨んでいることが分かっている。特に子供を抱いた男性は、裸体の姿でも描いており、このような作画態度は洋画デッサンを学んだ影響と見てよいであろう。《悉多発心図》でも見られたように、女性の胸元に着けているブローチの石が放つ光の反射を細かに描き込んでいる。またこの作品で興味深いのは、子供が持つ風車に金を施し、春の陽光にきらめくように描いている点である。光の表現の幅が広がり、より自然な光を表すことが可能となっている。以上、翠嶂の明治期における文展の出品作品を見た。以降、大正元年(1913)第六回文展では《青田》、第八回で《採桑》と、人物表現が続いていくが、歴史主題や宗教画題、民衆の群像を描くという若い情熱は影をひそめ、農村の風景を情感をたたえた画面に描き出すようになる。翠嶂は明治30年末に「入日を真正面に受けた農婦の図」を描いており、これに始まり官展で大正期に見られる農村風景を描いた翠嶂作品が、浅井忠の《農夫帰路》(1887年、ひろしま美術館蔵)や《春畝》(1888年、東京国立博物館蔵)など農村を描いた作品よって結ばれる、明治30年代初頭からの日本画における「自然主義」の流れに組みするものであることが、田中修二氏により指摘されている(注11)。第三章 翠嶂が目指した画家としての有りようさて、翠嶂が絵画を学び始めた当時、画壇全体に歴史画を描く傾向があり、そうした流れの中で翠嶂が写実的な空間表現、人物表現を磨いてきたことを見てきた。師の竹内栖鳳が《富士川大勝》を描いたきり、歴史画から遠ざかったのに対し、翠嶂は明治30年代から明治の終わり頃までは、歴史画題を描くことを己の本分としていたように見受けられる。しかし、翠嶂のこうした姿勢にも師の影響はあったと考えられる。栖鳳に入門した明治26年(1893)当時、栖鳳は古画学習に熱心だったと翠嶂が語り、塾生たちにも、古画学習が奨励された。この栖鳳の古画学習は、アーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa,1853~1908)が京都で講演をおこなったことがひとつの契機となっているという指摘がある。通訳で来た岡倉天心とフェノロサは、東京― 333 ―― 333 ―

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