鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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の進歩と比べて京都の画家が依然として流派にこだわり、そのことが日本画を停滞されている、京都は古来美術が多く残る豊かな文化的土壌であるから、これを発展させ、新時代にふさわしい躍進を期待するといって京都の画家たちを鼓舞した。フェノロサの『美術真説』においても、古典に学び、新機軸を打ち出すことの大切さを述べた。これに刺激を受けた栖鳳は古画学習をすすめ、あらゆる流派を学び、鵺派とも揶揄されたような新たな画風を打ち出していくこととなる(注12)。翠嶂もまた師の助言どおり古画の学習を行った。海の見える杜美術館所蔵の下絵やスケッチの中には、古画の模写なども含まれる。栖鳳の場合、古画からあらゆる描き方を学び、自家薬籠中の物にしていったが、翠嶂の場合、その描かれている画題、風俗、図様、人物のポーズ等を、いかに現代の自分が、写実性をもって描くかに興味をもったのだろう。古いものに学び、新しい画境を切り拓こうとした点では、師と向いている方向は同じであるが、その手法が異なっていた。ただ、このような日本画の伝統的な画題に、写実的な空間と身体の表現を与え、西洋のリアリティを持ち込むという考え方は、東京に目を向けてみれば、フェノロサらが早い段階から提唱し、狩野芳崖が明治19年(1886)《仁王捉鬼図》(東京国立博物館蔵)で描いてみせたものである。ここで指摘しておきたいのが東京の画家たちの動向と翠嶂の関係である。翠嶂はその生涯の画業を通じて、京都の画家でありながら、東京の動向にも影響を受け続けた画家であると思われる。前述のとおり、大正の初め頃からの翠嶂の官展出品作が、浅井忠をはじめとする画家たちの農村を描く作品に影響を受けた「自然主義」的な作品であるという指摘がある(注13)。《青梅》などは結城素明(1875~1957)の《無花果》(1907年、東京芸術大学大学美術館蔵)と人物のポーズが非常によく似ており、参考にしたものと思われる。また大正6年(1917)、第十一回文展に出品した《短夜》は、本作の3年前の鏑木清方(1878~1972)作《隅田河舟遊》(東京国立近代美術館蔵)から着想を得た可能性を指摘されている(注14)。今尾景年門下の画家木島櫻谷が、明治28年(1895)に京都の岡崎公園内で開催された第四回内国勧業博覧会で橋本雅邦(1835~1908)の《釈迦十六羅漢》《龍虎》、小堀鞆音(1864~1931)の《宇治橋合戦》に深い感銘を受けたように(注15)、彼ら京都の画家たちにも東京の画家の作品を京都で見る機会は、展覧会などで存分にあったと思われ、翠嶂も師や周りの京都の画家だけでなく、東京の画家たちの取り組みを見て、それを志向していた可能性もある。さらに、人物にクローズアップして、その心情等を物語る人物像を描いた画家として菱田春草(1874~1911)が挙げられよう。《広寒宮》などは、中国人物の群像を描く菱田春草の明治35年(1902)第十二回日本絵画協会日本美術院連合絵画共進会に描い― 334 ―― 334 ―

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