注⑴西山翠嶂の経歴については、以下の文献を主に参照した。た《王昭君》(龍澤山善寶寺蔵)の翠嶂流の翻案と見ることもできようか。終章西山翠嶂の初期の画業に見られる人物表現を追ってきた。歴史画や群像を描く上で、身体、空間、光、物の質感などの描写に注力し、現実味ある近代的な表現を志向していたことを述べた。それは師、栖鳳とはやや異なる姿勢であった。東京の岡倉天心やフェノロサらによる啓蒙が、師の栖鳳らに影響し、古画学習という形で翠嶂に間接的に影響をもたらしていることが考えられ、同時代の影響を受けながら実績を積んでいくその姿からは、美術界の状況に目配りをしつつ、自分の描くべき絵画を模索する翠嶂の姿が浮かび上がる。今後は京都と東京の動向両方を視野にいれつつ、影響関係を考察していきたい。高木多喜男「西山翠嶂の人と画業に関する基礎調査(年譜私案)」、『京都文化博物館研究紀要第5集 朱雀』、京都文化博物館、1992年楽涛山人「西山翠嶂伝」、都市と藝術258号楽涛山人「西山翠嶂伝」、都市と藝術304号⑵蝉を捕ろうとして登ったために栖鳳の家・耕漁荘の庭の灯篭を壊し、「蝉を写生しようと思った」と言って栖鳳に謝ったエピソードがある。(「栖鳳画伯の言葉から」『美の国』、第11巻4号)1935年⑶西山翠嶂『太朴無法』大丸出版、1950年118頁⑷高木多喜男「西山翠嶂の人と画業に関する基礎調査(年譜私案)」⑸「木島櫻谷─京都日本画の俊英」展覧会図録、2013年、泉屋博古館、110頁⑹柴田就平「歴史画家としての谷口香嶠」、「歴史を旅する 谷口香嶠」展覧会図録、2021年⑺『新画苑定期増刊壬寅逸作』、1902年6月、山田芸艸堂に《緑陰》の題で同構図の作品画像が記載。⑻西山翠嶂『太朴無法』大丸出版、1950年、140~141頁⑼同、140~141頁⑽森光彦「西山翠嶂と古画学習─楳嶺から栖鳳、翠嶂へ─」、「西山翠嶂─知られざる京都画壇の巨匠─」展覧会図録、2018年、海の見える杜美術館、65頁⑾田中修二「西山翠嶂と画塾・青甲社」(『大分大学教育福祉科学部研究紀要』2002)⑿森光彦「西山翠嶂と古画学習─楳嶺から栖鳳、翠嶂へ─」、「西山翠嶂─知られざる京都画壇の巨匠─」展覧会図録、2018年、海の見える杜美術館、63~64頁⒀田中修二「西山翠嶂と画塾・青甲社」(『大分大学教育福祉科学部研究紀要』、2002)⒁飯尾由貴子「西山翠嶂《短夜》について」『兵庫県立美術館紀要』五号、兵庫県立美術館、2011年⒂「木島櫻谷─京都日本画の俊英」展覧会図録、2013年、泉屋博古館、110頁― 335 ―― 335 ―
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