鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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は受肉と犠牲のテーマが読み取れるという。また、クーポラ装飾全体でマリアへの瞑想を促す役割をもつほか、その下部に位置するアプシスと聖堂内陣に施された聖母伝に対する序章かつ補足の役割も果たしていると述べた(注26)。実際、リナーティによるクーポラ装飾事業が、1599年に彼の前任者クラウディオ・ランゴーニ司教によって始められ、1609年の終わりまで続けられた内陣の拡張および装飾事業に引き続くものとする見解はしばしば提示されてきた(注27)。同じく2017年の図録に小論を著したマヌエル・フェッラーリも、これら二人の司教による装飾事業は関連付けて考察されるべきとしたうえで、一連の装飾事業は聖堂内部をトレント公会議で提言された新しい教えに沿った空間へと調整するものだったと述べた。また、全体のテーマは「聖体としてのキリスト」と「教会の花嫁としてのマリア」であるというが、根拠は詳述されていない(注28)。よく知られるようにトレント公会議以降、カトリックはプロテスタントから攻撃された教義を擁護するため、それらを積極的に絵画化してきた。16世紀後半のピアチェンツァでは、複数の聖堂において次々と聖母主題の装飾が注文されており、いずれもプロテスタントによる聖母崇敬に対する激しい攻撃への反応であったとされている(注29)。まさにそれらと同時期に行われたランゴーニの装飾事業が、聖堂内の主要な壁面と天井を聖母伝のほぼすべての場面で覆いつくすものであったことに鑑みれば、たしかにフェッラーリの意見は妥当だろう。しかし、公会議から半世紀以上が経った1625年のクーポラ装飾事業においても、安易に同様の姿勢を読み取ってよいだろうか。既に指摘されているように、彼らの解釈には個々の図像内容と同時代の状況との照合が不十分である。そのため、ここではシビュラの描写に着目し、同時代の文脈が表れているかを検討し、彼らの論を補強したい。シビュラについては、彼女たちの間のストゥッコに刻まれた二つの銘文が降誕に関連する聖句であり、また、異教の存在であることから、預言的啓示というプログラム全体の文脈を、補強しているとされる(注30)。この解釈はもっともだが、それにしてはシビュラに割かれた空間が多すぎるように思われる。さらに言えば、当時は、クーポラの下に位置する主祭壇に、既に四メートルもの大きさの《シビュラ》が、七メートルを超える巨大な主祭壇画《聖母の御眠り》の両脇に設置されていたため(注31)、リナーティとランゴーニの装飾事業を一続きのものとみるなら、シビュラは図像プログラム上でも観者の視界の中でも過剰に重複しており、副次的な存在であるはずの彼女たちに対する扱いとしては不自然に思われる。― 343 ―― 343 ―

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