たしかにシビュラたちは、キリスト教以前の異教世界において、キリストの到来を予言したことで大きな尊敬を集めていたから、降誕伝部分に改めて描く必要があったとは考えられる。しかし、それであれば銘文には先に述べたようなラテン語やギリシア語によるシビュラ自身の予言文言こそを使うべきで、現状のように聖句を引く意図が十分に説明できない。こうした図像プログラムと強調度合いの矛盾は、彼女たちを再度描かせた要因がプログラムの外に求められることを示唆するのではないだろうか。ここで1599年に、ドイツの文献学者・医者であるヨハネス・オプソポエウスが、自身で編纂した『シビュラの託宣』(注32)において、古くよりシビュラたちの予言の典拠として参照されてきたこの書物を、後代のキリスト教徒による偽書であると示したこと(注33)に注目したい。聖アウグスティヌスをはじめとする初期キリスト教父らによって高く評価されていた「シビュラの託宣」が偽書であったことは、プロテスタントの論客にとって、教皇派の腐敗が早い段階から始まっていた証拠として重要な意味を持ち、初期キリスト教父神学の軽信や奇跡・迷信への偏愛を指摘する際に、格好の例として用いられたとされる(注34)。こうした状況を受け、カトリック側でも託宣の信ぴょう性に疑問を持ち慎重な態度をとるよう促す聖職者もいたが、大多数は彼女たちの権威を変わらず信じる立場をとり、ときには熱心に反論さえしたことが指摘されている(注35)。つまり、シビュラは1600年代初頭になってはじめて、カトリック改革の理念下で積極的に論じ描かれるべき主題へと変貌したと推察される(注36)。たとえば、先述のドメニキーノの《クマエのシビュラ》を注文したシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の蔵書には、オプソポエウス編纂の『シビュラの託宣』が含まれていた(注37)。また、この作例以降、同様のタブロー画が次々と制作されるようになるが、シビュラを独立した主題として聖堂やパラッツォ壁面以外の媒体に描くことは、版画を除けば17世紀以前にはみられない事象であった。以上のことより、本クーポラ装飾において、既にランゴーニの時代に大々的に取り上げられていたシビュラが、リナーティによる装飾事業において再度目立つように描かれたことも、こうした同時代的状況が反映された結果だと考えられる。シビュラに添えられた銘文が託宣ではなく聖書から引用されていることも、知識階層の個人邸宅用タブローとは違い、公の場所かつ簡単には取り換えられない司教座聖堂のクーポラ装飾において、まったくの潔白ではない「託宣の言葉」を直接的なかたちで提示することが憚られたからとすれば理解できるだろう。こうした慎重な態度は、先述したよ― 344 ―― 344 ―
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