鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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鳥とり山やま石せき燕えん(1711~88)は、江戸時代中期の画人である。はじめ狩野派に学んだが、その門下から美人画において一つの頂点を築いた喜多川歌麿を排出したことで、浮世絵史における重要な人物とみなされてきた。近年では『画図百鬼夜行』はじめ種々の妖怪を描き出した絵本の作者として広く名が知られている。㉜ 鳥山石燕の画業について研 究 者:太田記念美術館 学芸員  赤 木 美 智はじめに石燕研究は、明治後期から昭和初期にかけては絵馬をはじめとする諸作品の紹介や俳諧歳旦帳にみる活動からの事跡の検討が諸氏によって進められ(注1)、昭和後期では継続的に調査を行われた楢崎宗重氏による『浮世絵肉筆画 第六巻 歌麿』が、研究史のなかで最大数の10点の石燕作品を紹介されたのが特筆される(注2)。平成以降は永田生慈氏(注3)、浅野秀剛氏(注4)を中心に事跡の整理と作品紹介が行われたが、歌麿研究の充実に付随して副産物的に師である石燕の画業も浮き彫りになってきた側面もあり、石燕を中心に据えた画風変遷の検討、また作画内容から史的位置を考察する作業は十分には行われていない。そこで本稿では石燕の画業の輪郭を具体的にとらえる手がかりとして関連作品のデータを収集、分析し、交友関係から文化的ネットワークを考察する。最後には高い彫摺技術で知られる『鳥山彦(石燕画譜)』にも触れる。一、 基本事項の確認管見に入った石燕が手掛けた作品のうち歳旦帳を除いたものを〔表1〕とした。挿絵の一部を担った版本や文献中にのみ確認される作品も含めている。また〔表2〕には石燕が弟子とともに挿絵を寄せた俳諧歳旦帳をまとめた(注5)。なお以後【 】内の数字は〔表1〕のNo.と一致する。関係者の略歴は主に『日本人名大辞典』『国史大辞典』『国書人名辞典』を参照している。■姓名・号・生没年鳥山石燕は本姓佐野氏、名を豊房とした。「佐野」姓は墓石(台東区、光明寺)の台部分に刻まれ、明治三十四年(1901)時点で石燕の子孫「佐野宗七」の妻某による展墓が報告されることから(注6)確実と思われる。号は石燕、月窓、零陵洞、舩月堂、飛雨郷、梧柳庵が知られ、「石燕」「月窓」は絵画、俳諧ともに長く用いたことが確認できる。なお「石燕」「零陵洞」は既に指摘さ― 352 ―― 352 ―

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